2009年12月14日月曜日

坂の上の雲(2)

              「秋山真之」の筆書の一つ:特別展@戦艦「三笠」より

2009年12月13日(日) 午前中、横須賀に行き、特別展「秋山真之と正岡子規」が行われている戦艦「三笠」を訪れた。

 特別展には、「秋山真之」の筆書が数点展示されていて、大変に興味を覚えた。

 一般に、「外交」の「政策」によって戦争は回避すべきであるが、「維新」直後から続く、「列強諸国」からの脅威、特に「帝政ロシア」や「中国・清」、によるに「日本国への侵略の恐れ」に対し、日本政府の「危機感」は、当時としては、「外交」の「政策」のみによって打破できるような状況ではなかったように思える。また、明治維新後、全ての点において弱小国であった「日本」は、第二次産業がまだ発達しておらず、経済力にも乏しく、「戦争」という手段を利用して、「日本」という国を外国に対して鼓舞するしかなかった状況であったと思われる。そのような状況下で、「日清・日露」戦争の時代が展開されて行く。

 今日のように、幾度となく繰り返された「悲惨な戦争」の結果として、各国が「戦争の愚かさ」を自覚し、「戦争」に突入する前に「外交」の「政策」を実行することにより、「平和裏」に「外交上の問題」を解決して行く、という「時代」ではなかった。

 帰宅後、NHKドラマスペシャル「坂の上の雲」(第3回放送)を見る。外交上、劣勢の立場に立たされていた当時の日本政府が、対外政策として、「戦争」という手段を選択せざるを得なかったことを十分考慮しながら、このドラマを観る必要があると思う。 「日清戦争」開戦時の「海軍」の「未熟な戦略」からも、国内の経済政策もおぼつかず、「国民の視点」を「海外」に向けさせる必要があった当時の日本政府の「焦り」を感じ取ることができる。どこか、「現在」と共通することが繰り返されているように思われるが。

 「戦争」は、絶対に反対であるが、「外交上の対応策」だけでは、もはや解決できないような「他国からの侵略の脅威」がある場合には、「戦争」という手段も止むを得ないであろう。但し、国を守るという「自衛」の手段としての「戦争」に対してだけである。「パレスチナ人」の家族と帰国の機内で出会い、その家族の中の女の子が「帰ることができる《母国》が無い」と言ったことがずっと心に残っているからである。

 ドラマと並行して、小説「坂の上の雲」第2巻を読み始めた。本の中では、既にいろいろな人物が登場してくる。

 「アメリカにおける秋山真之」(上・中・下)島田謹二・著(朝日文庫)を購入。小説「坂の上の雲」と併せて読んでいるが、なかなか面白い書である。

2009年12月8日火曜日

坂の上の雲(1)

戦艦『三笠』日露戦争終結直後に爆沈。浮揚後、佐世保工廠にて修理完了した姿(明治41年3月12日@佐世保)Mar.12,1908:Battleship "Mikasa" at Sasebo naval port

2009年12月7日(月)
 NHKドラマスペシャル「坂の上の雲」(第1回放送、第2回放送)を見る。

以前から興味を持っていた「日清・日露戦争」における日本軍の活躍。そして、小学生の頃に親に連れられて横須賀まで観に行った戦艦「三笠」。当時は、「船」、特に「戦艦」に大変興味があった。

 また、子供の頃に憧れた人物は、最強と言われたロシアの「バルチック艦隊」を打ち破った「東郷平八郎」、「乃木希典」、等の軍人であった。

 しかし、先日、戦艦「三笠」を訪れた折、この旗艦に乗船していた当時の仕官に関する資料を読んでいて、「秋山真之(さねゆき)」に興味を覚えた。そのときに「坂の上の雲」を読んでみたいと思ったものであるが、本を買わないままになってしまった。従って、「坂の上の雲」の主役である「秋山好古(よしふる)」及び「秋山真之」の兄弟については、あまり知らなかった。

 横須賀には、海軍料亭「小松」がある。ここには、「秋山真之」の筆書が残っている。いつか訪れてみたいと思っている。

 「坂の上の雲」は、「明治」という時代の背景を理解して、「正岡子規」の人生模様と共に、「日清・日露戦争」に関する資料を併せて、物語を読み解くと、より一層面白いと思う。特に、外国に出兵せざるを得なかった「明治維新」直後の「国内事情」(幕府の崩壊に伴う「武士階級」の生活の下落、等)を知ることが大切である。また、「富国強兵論」を推進した「山県有朋」、等の「明治維新」で活躍した人物についても調べると面白い。

 それにしても「正岡子規」の妹である「正岡律」という女性は、面白い性格の持ち主だ。台東区・根岸の「子規庵」で暮らしていたらしい。この近くの「芋坂」には「羽二重団子」がある。私の好きなお店の一つである。「子規」も幾度となく「羽二重団子」を食べ、また俳句にも歌っているが、そこでは「芋坂團子」と言っている。

 今日から文庫本「坂の上の雲」(文春文庫版)を読み始めた。やはり面白い。ドラマではかなりの部分が割愛されていることが分かる。また、「秋山真之」と「正岡律」との「心の触れ合い(恋愛的な感情)の場面」がドラマ化されているが、このような内容は、小説には書かれていない。

2009年12月1日火曜日

光源氏ものがたり

土佐光起筆『源氏物語画帖』より「朝顔」。雪まろばしの状景。邸内にいるのは源氏と紫の上。

 「光源氏ものがたり」(上・中・下)田辺聖子・著 (角川文庫版)
を読んでいる。

 どうも「源氏物語」を読もうと何度か試みたが完全には読破できないので、心残りであったところ、ちょうど近くの書店で偶然にこの本を見付けた。

 この本は、「源氏物語」のダイジェスト版とは異なり、「源氏物語」に登場するいろいろなタイプの女性を、田辺聖子さんの解説を通して、紫式部の視点から、物語の内容にあまり深入りすることなく、伺い知ることができるので、私の目的に叶っているものである。

 「源氏物語」に登場する女性の中では、かなり以前から、「明石の君」*(1)が私の女性の理想像であったが、この「光源氏ものがたり」を読むに従って、徐々に別の女性像もよいかもしれないと思うようになってきた。例えば、「紫の上」、等。従って、どの女性が最終的に私の理想像に近いのかは、全巻を読み終えたときに考えたいと思う。

 なお、「明石の君」は、花では「橘」に例えられている。因みに、「紫の上」は、「(樺)桜」の花、そして、「明石の女御」は、「藤」の花にそれぞれ例えられている。

 また、「明石の君」は、「琵琶」の名奏者でもあったが、当時はどのようなメロディーを「琵琶」で奏でたのであろうか。先日、「東慶寺」で聴いたような「琴」と「琵琶」の合奏のようなものであったのだろうか。そうであれば、なかなか美しい音楽である。

「むつごとを語りあはせむ人もがな 憂き世の夢もなかばさむやと」  (光源氏)
「明けぬ夜にやがてまどへる心には いづれを夢とわきて語らむ」   (明石の君)

*(1)「明石の君」は、紫式部の「源氏物語」に登場する架空の人物。光源氏の明石時代の愛人で、源氏の一人娘(のちの明石の中宮)を産んだ。父は源氏の母桐壷更衣の従兄弟にあたる明石の入道、母は明石の尼君。「明石の君」は、性格は生真面目で我慢強い。万事につけて出しゃばらず賢く振舞うが、気位が高い。皇女にも劣らない気品と美しさとを備え、和歌や音楽に才長け、特に、箏の琴、琵琶の名手でもある。

 「明石の中宮」(明石の姫君、明石女御とも)は、光源氏の長女で、母は「明石の君」。「紫の上」の養女となる。「宇治十帖」に登場する「匂宮」の母。 

2009年11月27日金曜日

畠山美術館

2009年11月23日(月)祭日
 昨日の「東慶寺」での「お茶会」+「琵琶の会」で「招待券」を頂いたので、白金台にある「畠山記念館」を訪れた。

 住宅街の中にある「島津藩」の元別邸は、綺麗な庭と茶室を有する閑静な場所であった。どこか個人の御宅に御邪魔するような雰囲気の庭園を通り、本館へと向かう。

 本館へは、入口でスリッパに履き替えて入館するのだが、客として呼ばれたような気分になるので、なかなかいい雰囲気である。

 館内に入ると、展示場が「2階」という案内がある。2階に上がると、名品の数々が余裕を持たせた空間にゆったりと展示されている。展示方法での大きな特徴は、一方の壁部が畳敷きの座敷のようになっていて、あたかも客間で展示物を見ているような雰囲気を演出している点である。この畳敷きの部分は、左側に茶室が設けられていて、露地の雰囲気も味わえるようになっていて、この茶室の中で御茶を頂戴することができるようになっている。今日は、ここでも御茶を頂戴した。なかなか美味しい御茶である。

 今迄訪れた美術館の中で、特に日本の茶道具、等が展示されている美術館としては、その展示物の設定、館内の雰囲気、そして庭を含めた美術館全体の環境を含めて、大変に素晴らしい美術館であると思う。

 本日の御目当は、以前、書物で読んで知っていた、「重要文化財 唐物肩衝茶入 銘 油屋」(南宋時代:13世紀)である。この「茶入」の伝来は、油屋常言~油屋常祐~豊臣秀吉~福島正則~福島正利~徳川秀忠(柳営御物)~土井大炊頭利勝~河村瑞軒~上田宗悟(冬木家)~松平不昧(松平家)~畠山即翁~畠山記念館という、多くの歴史上の人物に愛された「茶入」である。大変にしっとりと落ち着いた雰囲気の「茶入」である。

 また、「古瀬戸肩衝茶入 銘 円乗坊」もなかなか魅力的な茶入である。伝来は、古市播磨~円乗坊宗円~桑山修理~中山主馬之介~神戸彦七~神田安休~三井元八~松平不昧~畠山記念館である。

 「原三渓」が所有していた「独楽棗」(16世紀)がなかなか落ち着いた配色で、非常に優雅な「棗」である。
 また、模様の美しさでは、「菊桐蒔絵棗」(桃山時代:16世紀)の棗が魅力的である。

 「古銅耳付花入 銘 西湖」(明時代:16世紀)は、大変に美しい花入である。

 「青磁香炉 銘 浅間」(明時代:16世紀)は、大変に美しい青磁の香炉である。

 「高取水指」(江戸時代:17世紀)は、ちょっと変わった形をしているが、私の目を惹きつけた水指しである。
 「菊桐蒔絵炉縁」(江戸時代:17世紀)の優美な模様は、前日の「月釜」で「炉」及び「炉縁」を観た後だったので、大変に気になった。こんなに美しい「炉縁」があるとは。

 書き物に目を移すと、まず、「扇面月兎画賛 本阿弥光悦筆」(江戸時代:17世紀)は、私の心を惹きつけた。概して、私は、「本阿弥光悦」の作品が好きなようである。

 そして、「国宝 煙寺晩鐘図 伝牧谿筆」(南宋時代:13世紀)。さすがに素晴らしい作品である。

 「消息 豊臣秀吉筆」(桃山時代:16世紀)は、茶室に掛けたらさぞ引き立つだろうと思う。

 最近は、自分が茶席を設けるような気分で、茶道具を眺めてしまう傾向になってきた。それもまた楽しからずや、である。

お茶会+琵琶の会@東慶寺


2009年11月22日(日)
 時折、時雨が降るような空模様の中、北鎌倉「東慶寺」にて、「月釜」に続いて、「お茶会」と「琵琶の会」に参加した。

 「お茶会」がどのようなものか、それも楽しみであるが、それにも増して「琵琶の会」がより心待ちである。また、「琵琶の会」が始まるまで、「点心の御食事」が供されるとのこと。こちらもどのような御料理が出てくるのか楽しみである。

 「お茶会」は、「白蓮舎」(立礼式)と「寒雲亭」との両方の席で交互に行なわれた。
 私は、まず「白蓮舎」で御茶を頂戴した。お菓子は、「干菓子」。ここでも「次客」の席になってしまった。そのときの参加者は、7名程で、女性は全て和服。やはり日本の女性の和服姿は、なかなかよいものである。

 その後、時雨が降り、底冷えする寒い中、赤々と燃えている火鉢の炭で暖をとりながら、「腰掛待合」で暫く待った後2時から行われた「月釜」に続いて、「寒雲亭」で二回目の御茶を頂戴した。「月釜」の時とは異なり、このときは、「寒雲亭」は、ほぼ満席状態であった。やはり茶席は、ある程度、客が多い方が楽しい雰囲気になる。これで今日は、三度も御茶を頂いたことになった。

 「寒雲亭」での茶席では、今迄座ったことがなかった一番末の席に着いた。本当の茶会では、かなり大変な役目をする席となるが、今回は、気楽な気持ちである。

 この席から眺める茶室も、雰囲気が異なり、いろいろと新たな発見をした。例えば、「風呂先」の波模様。白地に黒の線状模様で波が浮き彫りとして付されているもので、これは、まさしく「意匠」である。また窓際に目を移すと、縦格子の障子と、横格子の障子とが場所を異なって交互に配置されており、絶妙な雰囲気を醸し出している。「寒雲亭」の内部で、また新たな発見をしたような気分になった。

 「時雨清紅葉」という御軸
 上生菓子:「日本橋・長門」のもの
 お花:侘助の一種

 「お茶会」の後、「食事」が「方丈」にて椅子席で供された。「東慶寺」の「方丈」に上がるのは、これが初めてである。「点心の御食事」には、「煮物」の他に、「天麩羅」や本場の「けんちん汁」も付いていて、なかなか美味しかった。御飯は、笹に包まれていて、笹寿司のようなものが2つ。これもなかなかいい味だ。また、土瓶に入った御酒を猪口で飲んだ。そして、デザートも付いている。思った以上に、お昼を食べていなかったお腹が満たされたようだ。

 暫く食休みしてから、午後6時(18時)開演の「琵琶」の演奏を聴くために、「方丈」から廊下を伝わって「本堂」へ移動する。「本堂」に上がるのは、先日の「お月見の夕べ」に続いて二度目である。

 「琵琶の会」に先立ち、御住職が挨拶をされる。 その後、荒井姿水さんにより、演奏者の紹介があり、最初の演目について説明があった。

 最初の演目は、「桶狭間」。奏者は、荒井靖水さん(薩摩琵琶)である。これは、「語り」が伴う演奏である。「織田信長」と「今川義元」との有名な「桶狭間の合戦」の場面を語る。つい先日、「袋井」に旅行して、「今川義元」に所縁のある場所を訪れたばかりである。演奏を終えた後、荒井靖水さんが「琵琶」の種類、その演奏の仕方、等について解説をして下さった。

 続いての演目は、「沁臆」(シンオク)。これは、荒井靖水さん(5絃薩摩琵琶)・荒井美帆さん(25絃琴)の共演で、二人が作曲したものである。演奏を始める前に、荒井靖水さんと美帆さんが曲について説明をして下さった。これは、演奏のみだったが、なかなか綺麗な調べである。

 そして、最後の演目は、「平家物語」の一部である「敦盛最期」。奏者は、荒井姿水さん(薩摩琵琶)である。
 演奏を始める前に、荒井姿水さんが、つぎのような「平家物語」にまつわる「平忠度」について解説をして下さった。「平清盛の弟である平忠度は、薩摩守に任じられていました。武勇にも秀でていましたが、和歌をたしなんで、その道の名人である藤原俊成に教えを受けていました。いよいよ平家都落ちのとき、忠度は一度都を出たあとに密かに引き返し、俊成を訪ねます。落人が帰ってきたといって屋敷の内は騒ぎますが、「門を開けてくれなくてもいいので、門の側まで寄って下さい。お願いがあるのです」という忠度の言葉に、俊成は門を開けて対面します。忠度は、「世の中が静まって勅撰和歌集の企画が持ち上った際は、一首でもよいので私の歌を入れてください。私は一門とともに亡びていきますが、それが唯一のお願いであります」と、日頃から書き集めておいた和歌の巻物を俊成に渡します。俊成はこれを引き受けます。忠度は喜んで、「今は浮き世に思い残すことなし」と馬に乗り西へと向かいます。そんな忠度の背中を見送りながら、俊成は涙を袖で押さえるのでした。忠度が一の谷で討ち死にしてから三年後、俊成は勅撰和歌集・千載集を作りましたが、その中に忠度の歌を一首入れました。

「ささなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山ざくらかな」

 ただし本人は当時朝敵であったので、俊成はその名をかくし、「よみ人知らず」として入れたのです。
 また、「無賃乗車」のことを「薩摩守」という謂れについて、「千載集」に「平忠度」の和歌が「詠み人知らず」として載せられていることから、「タダ載り=タダ乗り=忠度=薩摩守」と言う、ということも語られた。
 この演奏は、「語り」を伴うもので、その内容は、「一の谷の戦い」で「熊谷次郎直實」に命を奪われた「平敦盛」の物語である。

 テレビ、等で「平家物語」を語るときに「琵琶の演奏」が伴うような場面を何度か見てはいるが、実際に「平家物語」の語りを「琵琶の演奏」を伴ったライブで観たのは、今回が初めてである。なかなかの迫力で、それぞれの物語の内容もある程度理解できた。

 琴の音色といい、琵琶の音色といい、雅楽に用いられる楽器の音色は、心が落ち着く。機会があれば、また聴いてみたいと思う。

2009年11月26日木曜日

猛禽類医学研究所1


 写真:野生に帰るため、頑張ってます!(クマタカの幼鳥)
「猛禽類医学研究所」HPより転写


「猛禽類医学研究所」に関するお知らせ。

 昨年2008年6月には、NHKの「プロフェショナル 仕事の流儀」で、猛禽類医学研究所代表の齊藤慶輔さんの活動を見たことが契機となり、微力だが個人的に支援を続けている。

 齊藤さんをモデルにした映画「ウルルの森の物語」が12月19日から全国公開される。齊藤さんをモデルにした獣医師を演じるのは、俳優の船越英一郎さん。上述の「プロフェショナル 仕事の流儀」の番組を見て感銘を受けた映画の制作者が昨年11月、釧路市の齊藤さんの元を訪ねて、野生生物を助け、守る活動を映画にしたいということを伝え、完成したのが、映画「ウルルの森の物語」(全国東宝系)。

 映画は、生き残っていた「エゾオオカミ」の赤ちゃん「ウルル」を発見し、治療の末に再び野に放つという架空の物語。

 映画の中で、鉛中毒になった「オジロワシ」が搬送され、治療を行うシーンが登場し、齊藤さんの研究室が再現されている。

 映画「ウルルの森の物語」の主人公のモデル齊藤慶輔さんの紹介
http://www.ululu-movie.jp/model.html

 猛禽類医学研究所のホームページ
http://www14.ocn.ne.jp/~irbj/index.html

 映画と同時に『野生動物のお医者さん』(講談社)も出版される。

 その本のなかで、「野のものは、野に。」と齊藤さんが訴えている。それは、大学時代に北海道の大自然の中をオートバイでツーリングしていたときに私が考えていたことと共通する点でもある。

2009年11月17日火曜日

標準模型(1)


 通勤電車の中で本を読むことは楽しいことであるが、今迄、「物理学」に関する本については、何冊かの本を除けば、途中で興味をなくしてしまうことが多々あった。それは、記載されている内容が徐々に尻窄みになってしまうものが大半であったからである。

 しかし、今読んでいる本は、違っている。その本は、《「標準模型」の宇宙 現代物理の金字塔を楽しむ》ブルース・シューム・著(森弘之・訳) 日経BP社2009/09/14 (原題 "Deep Down Things - The Breathtaking Beauty of Particle Physics", Bruce Schumm, Johns Hopkins University Press, November 2004)というもの。

 この本は、自然界の三つの基本的な力(電磁気力、弱い核力、強い核力)の働きかたを解き明かす、「ゲージ理論」に基づく素粒子の「標準模型」(Standard Model)に関する「入門書」である。
 「ゲージ理論」は、抽象的な対称性の議論から現実の相互作用のありかたを導き出す理論であり、自然界の基本的な力が対称性に従うものであり、方程式の持つ対称性が単純で美しいものであるという可能性を追求することによって、相互作用を表す項を導き出す。そして、素粒子の世界の対称性を数学的に表すのに使われるのが「リー群」という数学である。

 この本では、波動方程式、波動関数、等に関して、一般向けの量子力学に関する本では、記載されていない「ゲージ理論」、「リー群」との関連性について、物理的イメージが容易に理解できるように、平易な表現で記載されている。そして、U(1)、SU(2)、SU(3)等の概念を、複雑な数式を用いずに、平易な数学的イメージにより容易に理解することができるように工夫されている。

 「標準模型」は、「素粒子物理学」の世界を理解するために20世紀後半に多くの理論物理学者によって構築された理論である。 「ゲージ理論」、「リー代数」、「リー群」と「標準模型」との関係に興味がある人には、特にお勧めの本である。

 素粒子物理学の理論、特に、2008年にノーベル物理学賞を受賞した「小林・益川理論」の基礎をなしている「標準模型」に関して興味がある人にもお勧めしたい。

 本書は、量子力学のような基本的な「物理的概念」の知識があれば、その内容をより理解することができるが、高校程度の物理全般の知識があれば、多少の物理の基本書を参考することによって理解することができると思われる。

 以下にBruce Schumm教授のHPより抜粋したものであるが、同教授の実績を紹介する。Schumm教授は、理論物理学者ではなく、実験物理学者であることに特に注目したい。
Bruce SchummProfessor of Physics at University of California at Santa Cruz
(B.A.; Haverford College, 1981, Ph.D.; University of Chicago, 1988)

Finally, I have written and published a relatively accessible presentation of the Standard Model of Particle Physics, entitled "Deep Down Things - the Breathtaking Beauty of Particle Physics" (Johns Hopkins University Press, November 2004). In this book, I tried to present physicist's current thinking about the forces of nature without requiring a formal scientific background of the reader. The Universe is a wonderfully subtle yet fascinatingly structured place, and I hope the readers of Deep Down Things come away with a deeper appreciation of its miraculous beauty, as well as some of the conondrums that its deeper study present.

2009年11月16日月曜日

冷泉家の七夕祭

平成21年11月14日(土)

 東京文化会館で開催された《「乞巧奠~七夕の宴~」~京都・冷泉家の雅~》を観てきた。

 午後15時の開演前には、会場が既に満席に近い状態であった。

 舞台上には、「二星(たなはた)」と「乞巧奠(きっこうでん)」の二つの祭りのための「祭壇」が既に飾られている。「祭壇」には、二つの星のための琴や琵琶(びわ)が並び、「瓜・茄子・桃・梨・空の杯・大角豆・蘭花豆・蒸しアワビ・鯛」がそれぞれの皿に盛られ、いずれも二組そろえられて並べられている(それぞれが、牽牛(彦星)と織女(織姫)への供え物)。五色の布や糸、花瓶には、秋の七草が活けられている。水を張った角盥(つのだらい)は、星を映して眺めるためのもので、「梶」(かじ)の葉が浮かべられている。

 開演に先立ち、冷泉貴実子さんが、「乞巧奠」とは旧暦7月7日に同家の庭で行われ、「蹴鞠」、「雅楽」、「和歌」などの技芸を手向け、技が巧みになるよう祈る「歌会の儀式」である旨を話された。その後、各部の開始前に冷泉貴実子さんが、登場されて、各部の演目がどのような内容の行事であるのかを容易に理解することができた。

 演目:
 一部:蹴鞠(蹴鞠保存会)
 二部:雅楽演奏(絲竹会)
 三部:和歌披講(冷泉家門人)
 四部:流れの座(和歌当座式)(冷泉家門人)

 全ての部において、演じる人々が絵巻物から抜け出てきたような装束を身に纏い、その時間と空間を超越した優雅な立ち振る舞いと所作に、「平安時代」に遡ったような気持ちになった。

 第一部の「蹴鞠」は、平安時代の貴族の装束を身に纏い、蹴鞠を行うものである。それぞれの人の所作や立ち振る舞いが印象的であった。

 第二部の「雅楽演奏」は、初めてライブで聴く雅楽の大演奏で、西洋の楽器による演奏とは異なり、雅楽の楽器は、自然に調和している音を醸し出す東洋独特のものに思える。

 第三部の「和歌披講」は、(冷泉家門人)により和歌を朗詠することである。あらかじめ出題された兼題について、詠まれた歌を披講するもの。読師と講師とから構成されていて、合唱が響き渡り、「和歌」の世界へ心が入っていく。

 第四部の「流れの座」は、殊に素晴らしいものであった。歌の題は、組題(くみだい)で、「七夕(しっせき)」が頭につく、各人別々の題を、その場で各々が取りに行く。所役は、一人一人に重硯を配り、紙を用意して準備を整える。やがて男女のペア5組の間に「天の川」に見立てた白い布が敷かれ、彦星と織姫に擬された男女は、扇にのせた詠草を贈答して、翌朝鶏の声を聞くまで歌会を楽しむというもの。絵巻物から抜け出てきたような平安時代の貴族さながらの装束を身に纏い、歌会の「優雅な時の流れ」を感じさせてくれる。二組の男女が作られた歌を冷泉貴実子さんが披露して下さったが、大変にすばらしいもので、つい感激してしまった。御観覧の「天皇・皇后両陛下」も「流れの座」に御参加されたかったに違いないと思う。

  「星あひのゆふべすずしきあまの河もみぢの橋をわたる秋風」

 ますます「和歌」に興味を覚えた一日であった。

2009年11月12日木曜日

大学院生活の思い出(3)



 UNC-CHでは、Prof. Yee Jack Ngから”Quantum Mechanics”を教わったが、彼もProf. Merzbacher同様、Harvard Universityの大学院でProf. Julian Schwingerの学生(Harvardでの最後の学生)であった。そして、UCLA及びプリンストン大学高等研究所で実質的にはPh.D.の論文研究を行った人である。

 なお、WMUでは、曽我教授からTheory of Electricity & Magnetism を教わっていて、Prof. Julian Schwingerと朝永振一郎先生のそれぞれの御弟子さんから、「Quantum Electrodynamics」の基礎を教わったことになる。

 余談であるが、Harvard Univ.でMerzbacher教授と同期でJulian Schwinger教授の下で研究をしてPh.D.を取得したProf. Bruce DeWitt(現Univ. of Texas at Austin)もUNC-CHのDepartment of Physics & Astronomyで長い間教授として活躍され、理論物理学、特にアインシュタインの研究テーマとして知られている『General Relativity』の世界的権威者の一人としてUNC-CHのDepartment of Physics & Astronomyの名前を物理学の世界に広めたが、後年、彼の奥様でもあったProf. Cecil DeWittに係わる問題でUniv. of Texas at Austinに移ってしまった。大変残念なことである。また、彼が教授として在籍していた当時は、日本人として『General Relativity』の世界的権威者の一人であった大阪大学の内山龍雄教授も客員研究員としてUNC-CHのDepartment of Physics & Astronomyに在籍されていた(参照:チャペル・ヒル日本人会記録ノート)。

 Prof. Bruce DeWittが在籍されていた当時、UNC-CHのDepartment of Physics & Astronomyは、理論物理、特に『General Relativity』のメッカであった。『General Relativity』の権威者として有名なProf. John A. Wheeler(Princeton University)も当時は教授としてUNC-CHに在籍していたのである。そして、UNC-CHでProf. John A. Wheeler教授の下でPh.D.を取得した学生に、Nuclear Physicsに功績があった女性原子核物理学者のKathrine Way教授がいる。

 再び余談。WMUの曾我教授は、東京教育大学での「朝永振一郎」先生の最後の学生(弟子)であった。これは、奇しくもあまりにも偶然であった。Julian Schwingerと朝永先生は、Feynmannと共にその「Quantum Electrodynamics」
の研究の功績により同時にノーベル物理学を受賞した物理学者である。

 Mathematics for Physicistsは、Prof. Hendrik van Dam (Examen Doctorale 1959 University of Amsterdam) から教わったが、彼は、Prof. Martinus Veltman(1999年(Nobel laureate)University of Michigan at Ann Arbor)と協同で”van Dam-Veltman Discontinuity Theorem”を発表し、Prof. Eugene Wigner(1963年(Nobel laureate)Princeton University)とも協同で研究を行っている。

 更に、Solid State Physicsは、Prof. Slifkin (Ph.D.: Princeton) から教わった。

 そして、Electrodynamicsは、Prof. Jim York (Ph.D.: N. C. State) から教わった。UNC-CHからRetireした後、現在Cornell Universityの教授として現役でGeneral Relativity, Cosmology等の分野で様々な理論的研究を続行している。

 UNC-CHのfaculty membersにはノーベル物理学を受賞した教授の愛弟子が他にもいる。まず、Prof. Wayne Bower (Ph.D.: Cornell)。彼は、Cornell Universityの大学院で、Prof. Hans A Bethe(Nobel laureate)の下で研究の指導を受けた。

 Prof. Robertsは、Columbia UniversityでPh.D.の最終口述試験のときの試験委員3人全てがノーベル賞受賞者であったという。研究指導者は、確かあの有名なBragg教授であったように記憶している。

 授業を受けたことはないが、私には好意的であったJ. Ross Macdonald教授。B. A.(Physics, 1944)Williams College、S. B., Electrical Eng., 1944, S.M., Electrical Eng., 1947; graduate study in Physics, 1947-1948 Massachusetts Institute of Technology、D.Phil.(Physics) 1950 New College, University of Oxford(Rhodes Scholar, 1948-1950, MIT); D.Sc. 1967 University of Oxfordをそれぞれ取得している。専門分野は、半導体である。

 また、理論物理学者としては、世界的に知られているPaul H. Frampton教授がいる。典型的Oxford manである(Brasenose College, University of Oxford: B.A. 1965, M.A., 1968, D.Phil. 1968, and D. Sc. 1984)。京都大学のYさんがポストドックとして Frampton教授の下で研究していたので、よく研究室に遊びに行った。Frampton教授のOxfordでのアドバイザーは、Abdus Salam教授(Nobel laureate: University of Cambridge)の弟子にあたるJohn C. Taylor教授(University of Cambridge)であった。専門分野は、Particle Phenomenology and Cosmologyである。The University of Chicagoでは、南部陽一郎教授(2008年Nobel laureate)の下でポストドックとして活躍し、共同で論文を書いている。

Notable Physicists
 UNC-CH在籍中に御会いすることができた外部の教授の筆頭としては、自分の研究テーマである「Atomic Collision(原子衝突)」に関して、University of CambridgeのCavendish Laboratoryの所長であったSir Nevile Mott教授(Nobel laureate)である。彼のAtomic Collisionに関する研究、とりわけその理論的解析における貢献は量りしれないものがある。すぐ目の前に立っているSir Nevile Mott教授に直接質問をしてみたが、そのときには私の心臓の鼓動がかなり高鳴ったことを今でも覚えている。
 なお、Cavendish Laboratory*(1)は、多くの物理学者により金字塔的な物理研究がなされた場所として世界的に知られている。

 次に、シカゴ大学Ugo Fano名誉教授が挙げられる。彼とは、1985年5月13日と14日にUNC-CHで開催されたD.O.E.の『Atomic Physics Program Contractor’s Workshop』の際に、Prof. Shafrothの自宅でお会いすることができ、Prof. Shafrothから紹介していただいた。Ugo Fano教授は、イタリーのローマ大学で、私が最も尊敬する、あの有名なEnrico Fermi教授(Nobel laureate)、そしてWerner Heisenberg教授(Nobel laureate)から指導を受け、そしてEnrico Fermi教授と一緒に米国に渡りColumbia University及びThe University of Chicagoで研究をした学者である。即ち、Fermiの最後の愛弟子であり、私としては、夢のような人物である。

 私の物理における研究は、Accelerator-Based Heavy Ion-Atom Collision がメイン・テーマであり、この研究に携わることができたことは、今でも良かったと思っている。そして、日本では会えるかどうか分からないような、上述したトップクラスの研究者に出会え、そして研究テーマについて気軽に対話できたことは、生涯の思い出である。

 なお、The Institute for Advanced Study at Princeton Universityの所長であり、有名な理論物理学者・数学者のProf. Freeman DysonがUNC-CHの哲学に関する特別講演者としてチャペルヒルに1983年Fall Semesterの間滞在したことがある。

 また、Duke Universityのキャンパスで、素粒子理論で有名なPro. Murray Gell-Mann(Nobel laureate: California Institute of Technology)の講演も聞いた。彼は、マルチ・リンガルでもあり、本当の意味での「天才」であったという印象が残っている。

 余談であるが、Cornell Universityの天文学者であるProf. Carl Seganの講演やCarnegie-Mellon Universityのノーベル経済学者でコンピュータの研究者でもあるProf. Herbert Simmonの講演、地球のヴァン・アレン帯としてその名を残しているUniversity of Iowaのあの有名なProf. Van Allenの講演も聞く機会があった。後者の二人は、WMUでのもの。しかし、Prof. Carl Seganについては、どこだったか記憶にないが多分、Duke Universityではなかったかと思う。

*(1)Cavendish Laboratory (キャベンディッシュ研究所)
初代キャベンディッシュ研究所の所長に当たる物理学教授はTheory of Electricity & Magnetismで有名なJames Clark Maxwell。

大学院生活の思い出(2)



Research at The University of North Carolina at Chapel Hill

 Prof. Steve M. Shafrothは、UNCにおけるAtomic Collisionの実験Groupのリーダであり、私のMaster's Research の指導教授である。

 Prof. Shafrothは、WMUの曽我教授とThe Bartol Research Foundation in Swarthmore, PA.で研究室が隣接していたこと、そして同じ「原子核物理」の研究者だったことがある。また、WMUのProf. TanisのUNCにおけるPost Doctor研究の指導者でもあった。

 Prof. Shafrothの下でUNCで最初にPh.D.を取得したBarney L. Doyle (Manager, Ion Solid Interactions and Defect Physics Department, Sandia National Laboratory)が書いたProf. Shafrothのプロフィールを以下に示す:

 Prof. Shafrothは、1947年にHarvard CollegeからB.A.の学位をCum Laudeの優等で取得し、その後、1953年にJohns Hopkins Universityの大学院でStanley S. Hanna教授(後にStanford University教授)の指導の下で原子核物理学を専攻してPh.D.を取得する。また、同大学院でピエール・マリー・キュリー大学(パリ第6大学)からフルブライト奨学生として留学していた数学を専攻するChantal夫人と出会った。Ph.D.を取得した後、シカゴ郊外にあるNorthwestern Universityで講師及び助教授として5年間を過した。その間、5MV垂直式バン・デ・グラーフ型加速器を構築することによって加速器の魅力に捕りつかれてイオン誘起ガンマ線物理における輝かしい経歴が始まった。また、彼は、超伝導の鉛における陽電子の対消滅について研究した。それに続き、中性子、6Li及び7Liの入射粒子を含む核反応に対するNaI検出器の応答を研究するために、9ヶ月間をフランスのSaclayで過ごした。次に、Bartolで1960年から7年間研究を行なった。そこでは、magic 50の中性子核89Yの構造に関する研究、及びアイソバリックアナログと巨大双極子共鳴との間の干渉に関する非常に優れた研究を含むガンマ線の生成の研究を継続して行なった。その間、Temple Universityで講師及び米国海軍研究試験所(NRL:NAVAL RESEARCH LABORATORY)でカウンセラーとしても活躍した。1967年にUNC-CHに移り、Si (Li) X線分光器の発明によって誘発された加速器を利用した原子物理学の復興の立役者の一人になった。TUNLで行なわれたこの研究は、まず内殻イオン化現象を含み、そして後に多重イオン化及びX線サテライト、ハイパーサテライト、及び2電子1光子遷移の生成の研究に発展した。1970年代の後半に、UNCの彼の研究グループは、Radiative Electron Capture(REC)のような入射X線現象に集中していた。この研究は、1980年代に、彼のグループは、恒星及び熱核融合プラズマの研究においてかなり重要であるプロセス、Resonant (及びNonresonant) Transfer and Excitation (RTE)、を発見するに到った。UNCに在職中、彼は、サバティカルでフランスのパリにあるInstitute du Radium, 日本の和光市にある理化学研究所、及び米国オークリッジ国立研究所(ORNL)で研究を行なった。彼は、1980年より研究及び産業における加速器応用の協議会の組織委員会のメンバーであり、1978よりAtomic Data and Nuclear Data Tablesの共同編集者であり、米国物理学会(APS)のFellow(フェロー)であり、100以上の論文を投稿している。彼の優れた実績を表すその他のものは、これらの論文における120以上の異なる共同研究(素粒子物理ではなく原子/原子核物理であるという点に注目)を行なっており、且つ18の異なる加速器で研究を行なっている、という事実である。彼の業績は、事実、科学的発見及び理解によって優れたものであると同時に、原子核及び原子物理に対する彼の最も重要な寄与は、彼の科学に対するアプローチの独自な謳歌にあると私は思う。研究に対する彼の愛情は、感染しやすく、彼の学生、ポストドック、及び同僚でさえも、仕事や科学的アプローチを形作って行くことにおいて重要や役割を演じている。また、教育者として、彼は、いつも大変心が広く且つ学生の考えを支持し、また、学生が何かを発見しやすい大学/実験室環境を生み出す能力を有している。

 UNCにおけるAtomic Collisionの理論Groupのリーダは、原子衝突理論物理学の世界的権威者の一人Kenan ProfessorのEugen Merzbacher教授である。
 Merzbacher教授は、Harvard UniversityにおいてJulian Schwinger教授(Nobel laureate)の下で研究をしてPh.D.を取得し、その後、The Institute for Advanced Study at Princeton Univ.でポスト・ドクター(post doctor)研究を行った人である。

 更に、Merzbacher教授は、Institute for Theoretical Physics, Copenhagenで客員研究員として滞在していたことがあるが、そのときには、Niels Bohr(Nobel laureate)が不在で、彼の息子であるAage N. Bohr(Nobel laureate)らと研究をしたという。当時の理論物理学の世界における世界的に知られた物理学者との親交も多く、そのような話を聞いているだけでも楽しい時を過ごすことができた。

 この二人のHarvard出身の教授と、そして同じグループの他の大学院生と一緒にLenoir HallのカフェテリアやYMCA、或いはPhillips Hallのミーティング・ルームで軽い食事をしながら、或いはランチを食べながら、物理に関連した話題について話したり、原子衝突の研究について討論したりすることによって、いろいろスティミュレートされたことが多かった。これは、Julian SchwingerやNiels Bohrの手法でもあったように思う。彼らとの多くの対話は、生涯忘れることができないものである。

 冬期休暇および夏期休暇の間は、Prof. Shafrothの研究に従事することによりResearch Assistantshipを得ると共に「TUNL(Triangle Universities Nuclear Laboratory)」で加速器を利用した重イオンの原子衝突に関する研究に没頭した。

 「TUNL」は、隣町ダーラム(Durham)のDuke Universityのキャンパスにある加速器の研究施設である。この施設は、UNC、NCSU、そしてDukeの3つの大学が共同で使用する、D.O.E.(米国Department of Energy)の支援を受けている研究所である。「TUNL」には、タンデム型バン・デ・グラーフ型加速器("Tandem Van de Graaff Accelerator")を中心に、重イオンを加速するためのエネルギーを生成する装置、世界でも有数の偏向ビームの発生装置、多数のビーム・ライン施設、及び実験データ・アクエジション及びアナリシス用の計算機(DECのVAX)等の設備がある。

 私の研究は、WMU(Western Michigan University)でのundergraduate researchの続きで、タンデム型バン・デ・グラーフ型加速器を利用して、重イオンを加速し、ターゲットの原子に衝突させて、衝突における電子の挙動を研究することであり、主な作業は、衝突で得られたX線のスペクトルを解析することである。この解析により衝突によってどのような電子の遷移や励起が原子間で発生しているかを調べることである。

 実験は、平日や週末に係わりなく、昼夜を徹して数日間行われる。「TUNL」では、各実験グループがビームを利用できる時間や期間がそれぞれ限られているからである。制御室に実験データのログ・ノードを準備し、ビームのチャージ・ステートやターゲットの圧力、等の条件がその実験のスペック通り稼動しているかどうかを常にモニターで監視しながら、重イオン-原子衝突で得られたX線スペクトルを測定する作業を徹夜で行う。ときには、設定がうまくゆかず、数時間或いは数日の間、実験データを得ることができない場合もある。そのため、実験が軌道に乗ると、DECのコンピュータを介して磁気テープ(当時)にデータを記録し続ける。従って、実験中はそのほとんどが「TUNL」での生活となるので、ときどきアパートメントに帰宅する以外は、食事等もDuke Univ.のキャンパスにあるカフェテリアでとることになる。

 「TUNL」で実験があるときの楽しみの一つは、加速器の「子守り」の合間に、Duke Universityの「Duke Chapel」やキャンパスを歩いてしばしの休憩をとることである。Duke Universityのキャンパスは、Princeton Universityのそれを模したと言われているように、ゴシック建築風の美しい建物が立ち並んでいる。休憩時間に、この美しいDuke Universityの建築物を眺めながらキャンパスを散歩していると、このときばかりは、Duke Universityにも願書を出しておけばよかったと後悔する。

 実験との関係で、多電子原子モデルによる波動関数の近似解の解法の一つである「Hartree-Fock Approximation Method」(ハートリー-フォック近似法)の理論に興味を覚えた。これは、Phillips Hallに設置されているコンピュータ端末からUniversity of California Lawrence Livermore National Laboratoryに設置されているスーパー・コンピュータ(SC)に電話回線(当時)によりアクセスして、様々な条件を入力することによりターゲット原子のおよびイオン・ビーム(プロジェクタイル・イオン)に関する波動関数の近似解(即ち、ポテンシャルの近似値)を、SCに搭載されている計算ソフトを利用して、計算した。これにより、実験で得られたスペクトルに基づくエネルギー値と、計算式に基づくエネルギー値とを比較して、衝突においてどのようなelectron transition(s)やcapture(s)が実際に行われているのかを検討することができる。これは、Ph.D.の学生であったThomas(通称、トム)の協力の下で行った。しかし、H-F近似法で得られるポテンシャルは、あくまでも近似解なので、実験データを解析するときには、それなりに十分注意する必要がある。更に、イオン・ビームの衝突エネルギーが高くなればなる程、H-F近似法の解についても、何らかの修正が必要になると思われていた。

 Prof. Shafrothは、当時、Auger Electron Spectrometerを製造し、それを用いてheavy ions-atoms collisions後のAuger electron(s)の振舞いを研究することに全力を注いでいた。研究グループの一人の院生は、その製造でPh.D.を取得した。しかし、当時の私は、Auger Electron Spectrometerを設計して製造することに余り興味がなかった。

 私個人としては、重イオンの原子衝突の研究において、重イオンのビーム・ステートを完全に制御させること、そしてターゲット原子中の電子状態を正確に制御することができる方法がないかどうかということを考えていた。その解として、帰国した後に、Chapel Hillでお会いした理化学研究所の粟谷教授を訪問した際にいろいろ尋ねたときに、「ガス状ターゲットの方がピュリティーの維持が可能である」ということが分かった。ちなみに、粟谷教授は、Prof. Shafrothと同様、Nuclear PhysicsからAtomic Collision Physicsにその研究を移行した女性の方であり、University of Tokyoの御出身である。
 なお、帰国した後、ドイツのマックス・プランク研究所、日本の理化学研究所、米国のKSUでの研究、並びに世界各地での加速器を利用した原子衝突の研究が、重イオンと多電子原子との衝突における(Kシェル、Lシェルやそれよりも外殻の)電子のelectron transition(s)やcapture(s)の影響についても研究が進んでいることに気付いた。また、イオン・ビームのエネルギーも更に高くなってきていることに注目した。それは、まさに私が望んでいた「加速器を利用した相対性的な速度で加速された重イオンと多電子原子との原子衝突」における研究である。

大学院生活の思い出(1)



 「筑波大学 春日キャンパス」で開催されたKEK(高エネルギー加速器研究機構)主催の「公開講座」に参加した。キャンパスに到着した瞬間に「学生時代」へと気持ちが戻って行った。そして、The University of North Carolina at Chapel Hill (UNC-CH)で過ごした大学院での学生時代を思い出す。

 Cameron Avenue(キャメロン・アベニュー)でバスを降りて、大きな木々が生い茂り芝生が広がっているMcCorkle Placeの中を、ノスタルジックな街灯が適度な間隔で並んでいるレンガ敷の歩道を歩いて通り抜け、Department of Physics & Astronomyの教室があるPhillips Hallへ向かう。

 大学があるChapel Hill(チャペルヒル:訳して「教会の丘」)は、南部独特の、のどかな雰囲気があたりに立ち込めている。春先は、ここちよい風が、キャンパスの木立の中通り過ぎて行き、とても爽やかである。

 ダウンタウンにあるワッフル・ショップ"Ye Ole Waffle Shop"で朝食をとることにした。早朝にもかかわらず多くの人が忙しそうに食事をしている。主な客層は、教授や大学院生であり、カウンタ越しに客の注文を聞いては、新鮮な卵等を使って手際よくワーフルを焼く。このワッフル・ショップは、チャペルヒルで「私のお気に入り」となった最初の店だ。

 朝食を済ませ、木々が林立している公園のようなキャンパスを歩く。いつも思うのだが、レンガ敷の歩道やノスタルジックな街灯は、まるで小さなリベラル・アート・カレッジのキャンパスを歩いている雰囲気である。途中、キャンパスの中でも、私が大好きな建物の一つPerson Hallの脇を通ってPhillips Hallへ向う。時々、Old WellやYMCAに立ち寄ってからPhillips Hallに向かうこともある。

 キャンパスのブッショの近くや芝生では、ブルーと紺色の綺麗な「ブルージェイ」や真紅の「カーディナル」を見かける。また、キャンパスでは、独特の鳴き声を聞かせてくれる「モッキング・バード」の姿が非常に多い。

 チャペルヒルは、4月になると、ドッグウッド(アメリカンはなみずき)の薄ピンクや白の花そしてアゼリア(ツツジ)のショッキング・ピンクやホワイトの鮮やかな花がチャペルヒルのあちらこちらに見られるようになる。小鳥達の囀りも一段と賑やかになり、モッキング・バードの声が特に優しく囁きかけてくれる。キャメロン・アパートメントからキャンパスまでの散策は、この時期になると心がうきうきしてくる。また、時には「ブルーバード」や非常に小さい「イェローバード」(チッカディ)も見かける。バードウォッチングには、事欠かない。そして、いつも思うことは、「春は、チャペルヒルでは、勉強なんかしないで、のんびりしたい季節」ということである。

 アパートメントからキャンパスまでの散策コースは、主に二つあり、一つは、アパートの裏の林の中を通る小径である。もう一つは、家々の前を通る舗装されている路である。その時の気分でどの路を歩くのかを決めるが、舗装路の最短コースでも約40分は歩く。小径の方は、バタル・パーク(クリークが流れているところ)を散策したり寄り道したりすると2時間を費やしてしまう。ドッグウッドの季節には、小径の散歩が最高である。自然の中に咲くドッグウッドの白や薄ピンクの花のトンネルが小径を飾りつけてくれるからである。まだ、早春の頃には舗装路の散歩がよい。キャンパスまで歩いてくる途中の家の前庭には、私の大好きな黄水仙が咲いている。気分は爽快である。

 初夏になると、モアヘッド・プラネタリュームの前庭にあるバラ園のばらの花が芳しく咲き乱れる。私の好きなバラは、薄いピンク色の花を持つクィーン・エリザベスである。花自体も好きだがそれ以上にその香りが大好きである。また、夕方になるとMcCorkle Placeの芝生には、蛍が飛び交う光景が見られる。

 秋には、街の木々が紅葉して別世界になる。キャンパスまでの散歩は、まるで夢の楽園の中を歩いているような気分になる。チャペルヒルには「Southern Part of Heaven」というニックネームがある。春と秋のチャペルヒルには、よくマッチしたニックネームである。

 冬は、葉が落ちた木々が林立していて、ちょっと寒々しい景観となってしまうが、レンガ敷の歩道やノスタルジックな街灯が、キャンパスの風景に暖かさをもたらしている。
 
 大学院の仲間は、California Institute of Technologyを卒業してきた人、Harvard Universityを卒業してきた人、VMIを卒業してきた人、IBMからMSを取得するためにきた人、韓国からの留学生等、実にユニークであったように思う。

2009年11月2日月曜日

KEK 平成21年度公開講座(2)

2009年10月31日(土)
 キャンパスの木々の葉が秋色になり始めた「筑波大学 春日キャンパス」で、先々週に引き続いて、KEK(高エネルギー加速器研究機構)が主催する「公開講座」(2)に参加した。今日は、「物理」に直接関係する内容の講義なので楽しみだ。

講義内容
(1)「ビックバンの前を探る新しい宇宙観測」
高エネルギー加速器研究機構 素粒子原子核研究所 教授 羽澄 昌史
(2)「ブラックホールの熱力学と超弦理論」
高エネルギー加速器研究機構 素粒子原子核研究所 准教授  磯 暁

 前回と同様、講義の時間は、質疑応答の時間と休憩時間を含めて13:00~16:30の約3時間半の予定だったが、後半の講義が延び、17時近くまで質疑が続いた。2つの講義ともに内容的にかなり充実したもので、将来の物理研究の一端を知る思いであった。
 前回の公開講座(1)と同様、TPのプリントアウトが事前に配られ、講義は、そのTPの内容に沿って説明されるので、ノートを取る必要がない。今回の講座も両講師ともに日本及び世界におけるその道のエキスパートであり、充実した内容の、素晴らしい講義を行って下さった。

 羽澄教授は、1965年に偶然観測された「宇宙背景放射」(Cosmic Microwave Background Radiation)(光の化石)に基づいた宇宙の研究について、詳細に説明された。そして、「宇宙背景放射」(CMB)にまつわるこれまでの発見物語と、「チリ」の山頂でこれからはじまる新しい観測を紹介された。「宇宙背景放射」(CMB)により、どのような「物理的規則」に基づいて「宇宙」が137億年前に誕生したのか、というテーマを研究することは、大変に興味がある。今後は、観測衛星を打ち上げて、更なる実験を行ってゆく予定であるらしい。この研究も「ILC」プロジェクトと同様に、国際規模で「共同研究」として行われてゆくことを望む。

 磯准教授は、ブラックホールにエントロピーの概念を適用して、「ブラックホール熱力学」を一つの例として、「時空の熱統計的な性質」について、最近の超弦理論の発展と共に、最近の研究の一端を紹介された。大変に興味を覚えたのは、重力における係数、量子力学における係数、電磁気学における係数、そして、熱力学における係数をそれぞれ関連付けて説明されたことである。これは、私にとっても新しい物理へのアプローチの仕方であった。

 受講者の中に、中学生がいた。塾だけに通っていないで、最先端の物理・実験及び理論に興味を抱いている若い世代がいることに希望を感じた。

2009年10月20日火曜日

KEK 平成21年度公開講座(1)

2009年10月17日(土)

 今日は、「筑波大学」春日キャンパスで開催された、KEK(高エネルギー加速器研究機構)が主催する「公開講座」に参加した。平成21年度のテーマは、『ノーベル賞の先の未来へ』。

講義内容
(1)「超伝導技術が拓く先端加速器科学」
高エネルギー加速器研究機構 共通基盤研究施設 教授 山本 明
(2)「全てのイオンを加速するデジタル加速器」
高エネルギー加速器研究機構 加速器研究施設 教授 高山  健

 講義の時間は、質疑応答の時間と休憩時間を含めて13:00~16:30の約3時間半。TPのプリントアウトが事前に配られ、講義は、そのTPの内容に沿って説明されるので、ノートを取る必要がない。その分、講義に集中できる。両講師ともに日本及び世界におけるその道のエキスパートであり、充実した内容の、素晴らしい講義を行って下さった。

 山本教授の講義は、「超伝導」というテーマであったが、期待していた「ILC」の「超伝導空洞」については講義時間の関係であまり触れられなかったので、質疑応答時に「ILCの超伝導空洞に関するKEKの開発状況と世界の開発状況」について質問をした。「ILC」の実現を希望するものとして、これは、今、私が最も関心を抱いているテーマである。

 今朝オーストリアから帰国されたというのに、高山教授は、その疲れを微塵だに見せないで講義をされた。技術的に予備知識がなかった高山教授の「誘導シンクロトロン」は、その講義を聴くうちに興味を覚えてきた。この講義のお陰で「サイクロトロン」や「シンクロトロン」の基本原理を復習も兼ねて十分に理解できたと思う。あらゆる種類の重いイオンを加速できる「誘導シンクロトロン」の応用の一つに《核融合》がある。これは、個人的に興味を覚える応用分野である。また「遺伝子」や「DNA」等の「ゲノム」への応用に対しても興味が湧いた。その他、「環境」や「自然」に対する応用等も示され、「加速器技術」が幅広い分野に適用可能であることを知ることができた。

 KEKを訪れてから、「加速器」そのもの(そのメカニズム、電子機器、測定装置、ビーム工学、等)について大変に興味を覚えてきた。私自身もう少し若かったならば「加速器工学」をぜひ勉強してみたいと思っている。

 受講者の中に、高校一年生の女の子がいた。「加速器」の分野に興味を抱いている若い人の将来が本当に楽しみである。

 時間的に可能であれば、講義を終えた後、実際の装置をKEKで見学することが最も効率的に装置を理解することができると思う。これは、ぜひ実施してもらいたいと考えている。

2009年10月7日水曜日

中秋の名月

2009年10月3日(土)
 今夜は、十五夜「中秋の名月」である。北鎌倉「東慶寺」の「本堂」で開催された「お月見の夕べ」を妻と二人で観賞した。

 「本堂」に入りきれない観客は、「方丈」で観賞することになったようだ。
 普段「本堂」に上がることができないので、この機会に「本堂」に祀られている御本尊「釈迦如来像」、開祖「覚山尼像」、第5世「用堂尼像」(後醍醐天皇の皇女で護良親王の姉)、第20世「天秀法泰尼像」(豊臣秀頼の息女で家康の孫娘・千姫の養女)を間近で拝むことができた。

 会の開始と同時に、御住職と二人の僧侶による「般若心経」の読経があり、更に「月光菩薩」に対するお祈りがあった。生まれて初めて御寺で「十五夜」を迎えたが、主役のお月様は、まだ雲に隠れている。演奏会が終わる頃までには、その美しいお姿を見せてくれるとよいのだが。

 読経の後、境内の鈴虫の鳴声に誘われるように、「月」という篠笛独奏曲を吹きながら和服姿の「川村京子」さんが静々と登場する。

 演奏は、全部で三曲。最初の曲は、御琴のみの独奏「乱 乱輪舌」。二曲目は、「四季曲」、そして三曲目は、「Kizu」。二曲目と三曲目は、川村さんの歌と共に御琴の音色を楽しむことができた。

 特に、三曲目を演奏する前頃からは、お月様がその姿を見せて、演奏もお月様の方向に転換して行われた。

 演奏が終わり、「本堂」を出るときに、本堂脇にある「池」の水面に綺麗なお月様が写っていた。なんと素晴らしい光景であろうか。 「十五夜・中秋の名月」を「東慶寺」のお庭で十分に堪能することができた。

 普段では入山できる時間帯ではないのだが、 夜七時頃の「東慶寺」の境内は、「ぼんぼりの灯」のような照明で照らされていて、「古都・鎌倉」の情緒が殊の外漂っていた。

妻と二人で、久し振りに古都の風を楽しむことができた。

2009年9月29日火曜日

東慶寺 茶室「寒雲亭」

 私の「御茶」の楽しみの一つに、御茶を戴く場所である「茶室」の構造と、「茶席」のために飾られている「御軸」、「御花」、「花入れ」、「香炉」、「風呂」、「釜」、「水差し」、等を含む茶道具を見るということがある。後者は、茶席を主催する「亭主」の美的感覚にかなり左右されるものであるが、これは、北鎌倉「東慶寺」の茶室「寒雲亭」を最初に訪れたときから興味を覚えたものであり、先月(8月)からお邪魔している「東慶寺」の「月釜」では、御亭主の素晴らしい感覚が「茶室」を訪れる楽しみを倍増させてくれている。 先月の「月釜」は「立礼式」であったがこれもまた夏の「お茶席」として楽しむことができた。

 私は、「東慶寺」の茶室「寒雲亭」の「露地」を歩くのがことのほか好きである。「露地」を歩いたのは、今回の「月釜」で2度目であるが、「苔」のむした「露地」を歩いて「貴人口」より茶室「寒雲亭」に入るときには、時の流れが「千利休」の時代へと戻されて行くような気がするし、自然と心身ともにある種の緊張感が漂ってくる。

 北鎌倉「東慶寺」の茶室「寒雲亭」は、京都の「裏千家」にある茶室と同じ名前であるが、この「東慶寺」の「寒雲亭」が元々京都の「裏千家」にあったもので、明治時代、東京の久松家(元・伊予松山藩15万藩主松平(久松)家)に移築され、その後、鎌倉・材木座の堀越家(堀越宗円)を経て昭和35(1960)年、堀越家から斉藤利助氏により寄進されて「東慶寺」に移築されたものである。

 「寒雲亭」は、「千宗旦」(千利休の孫)の好みで造られた茶室で、わび本位の茶室である「今日庵」(こんにちあん)と「又隠」(ゆういん)の二つの茶室とは対照的に、書院造りが特色である。小間と広間とが併設されており、広間は、八畳で一間の本床と一畳の控えと付書院がある。

 茶室「寒雲亭」の天井は、貴人をお迎えするための「真」、お相伴の人には「行」、自ら茶を点てる場所は「草」という具合に、天井を「真行草」の三段「所謂、真行草(しんぎょうそう)の天井」、に張り分けてあり、千宗旦の茶人としての独創性と心遣いが示されている。その草にあたる船底型の天井の下には、「千宗旦」筆の「寒雲」の扁額が飾られており、「東福門院」よりの拝領品を象った「櫛形の欄間」が施されている。

 なお、京都・裏千家に現存する「寒雲亭」の有名な「八仙人の手違いの襖」(狩野探幽)(1602-74)が、飲中八仙(いんちゅうはっせん)(唐の杜甫が作った詩に登場する酒豪、李白・賀知章など8人)の酒を飲む様子を描いた際、一仙人の左右の手を描き間違えたため「手違いの襖」といわれている著名な襖)は、「東慶寺」の「寒雲亭」から「裏千家」の「寒雲亭」に戻されたものである。(平成6(1994)年改修)

2009年9月9日水曜日

KEK一般公開

2009年9月6日(日)
 筑波にある「KEK(高エネルギー加速器研究機構)」の一般公開に参加した。

 今年の4月19日(日)に「科学技術週間」の一環として開催された「つくばの研究機関」の特別公開のときは、2008年のノーベル物理学賞を受賞した益川・小林理論を実験的に検証した実験施設の一つである「Belle」測定装置を見学することが目的であったが、今回は、「CERN(Conseil Européen pour la Recherche Nucléaire):欧州原子核研究機構」で稼動し始めた「LHC (Large Hadron Collider):大型ハドロン衝突型加速器」に続く次世代の加速器としてその建設が予定されている「ILC (International Linear Collider):国際リニアコライダー」の研究・開発に特に注目して、「KEK」にある“ILC”関連の研究・実験棟を訪れることにした。

 最初に「超伝導リニアック試験施設棟」を訪れた。ここは、“ILC”を実現するために最も重要となる「加速器」の構成部分の一部である「超伝導リニアック」を「製造・実験・研究」している研究棟である。

 どちらかというと「物理」そのものを研究する場所ではなく、「加速器」の「装置」の「製造場所」といったような雰囲気のところ。以前の私であれば殆ど興味を覚えなかった場所である。しかし、電子、陽電子のバンチが加速されて通過する空洞を形成する「加速管」に「超伝導材料」が用いられていることに大いに興味を覚える。そして、「加速管」で電子、陽電子を加速させるためのメカニズムが私の好きな分野である「電磁気学」、「超伝導物質」、そして「加速器工学」のそれぞれに大いに係わっていることが判ってきて、自然に興味をそそられる。

 担当者から「超伝導加速空胴」について説明をしてもらっている間に、「加速器」を構成する「装置」の構成・構造は、もとより、「装置」それぞれを製造するときに発生する問題点を解決するために必要な技術にも興味を覚えた。

 例えば、
(1)ナノスケールのビーム(電子・陽電子)を加速するための「空洞」を鏡面研磨するときに発生する凹凸や傷を検査・検出する光学的検査方法及び装置;
(2)「空洞」の鏡面研磨方法(化学液により研磨);
(3)RF(高周波)の安定したパルス(上面がより平滑化されたパルス)を発生しかつ供給するための技術;
(4)長い距離に亘り接続されるパイプ間の機密性(ここでは「超伝導」を実現するために液体窒素、等を含めた「装置」を一定の温度・圧力に保持する)を実現するために必要な異種金属間の圧着式(?)接続方法、等。

 帰宅してから「電子や陽電子のバンチが超伝導空胴の中をRF(高周波)電界で加速されるメカニズム」について考える。インターネットをサーフィンしても適当な資料がなかなか見付からなかったが、ようやく京都大学大学院生の修士論文(内容は、上記(1)に関連したもの)に一部分ではあるが、望ましい記載があった。しかし、実際には、「電子や陽電子のバンチがほぼ光速にまで加速されて所望のエネルギーを得る方法」について、いまだ理解できていない。何かこれについて説明されている資料はないだろうか。

 本来ならば、この実験棟の後に「先端加速器試験棟」を訪れるべきであったが、次に、「Belle」の実験棟を訪れてしまった。これは、ちょっと失敗した。
 なぜならば、後で「先端加速器試験棟」を訪れたときには、疲れてしまって、説明を聞く気分ではなかったから、説明なしで単独で実験棟を観て回ってしまったからである。

 「超伝導リニアック試験施設棟」の次に訪れたのは、「Belle」が設置されている「筑波実験棟」である。前回訪れたときに一度観ているので、あまり感激はしなかったが、「Belle」がメインテナンスのために開いていたので、その内部の様子を今回初めて見ることができた。しかし、肝心の「検出器・測定器」部分は内部に設置されたままなので、見ることができない。

 「Belle」の実験棟で説明をして頂いた人は、関西語で話すひとだったので、京都大学のOBであろうと思われ、京都大学の基礎物理学研究所の所長・教授を兼任されていたときの益川先生の講義を受けたことがあるとのことだが、マスコミの前での態度とは全く異なる素晴らしい先生ですとのこと。但し、黒板の字は、大変読みずらかったとのこと。

 そして、「KEKB」の装置を別個に展示している「Belle」の実験棟に隣接する資料室を見学する。
 続いて「日光実験棟」を訪れる。ここでは、「加速器」を構成しているリングの一部分と、そのリングに設置されている様々な電磁石や、「ルミノシティ」を向上させるための装置である「超伝導クラブ空胴」を見学する。

 「超伝導」の技術がここにも生かされていることに興味を覚える。また、「ルミノシティ」を飛躍的に向上させることができた「クラブ空胴」の目的とその機構にも興味が湧いた。
 上記以外の実験棟も見学したが、疲れたのであまりよく観察しなかった。これらの実験棟の見学は、次回の楽しみとしたい。

 そして、最後に、小林誠先生の講演を聴く。先生の講演は、これで3度目になるが、その内容はあまり代わり映えしなかった。もう少し、益川先生のようにユーモアを交えて話されるとよいのだが、といつも思う。

 疲れたが、楽しい一日を過ごすことができた。やはり「物理」は楽しい。特に、加速器を利用した物理学には、夢がありロマンがある。

参考資料(1):
高エネルギー加速器研究機構(KEK)の齋藤健治助教授をリーダーとする加速器研究開発グループは、ニオブ※1)の超伝導材料で作られた超伝導加速空洞※2)においてメートルあたり5,230万ボルト(V/m)の加速電界を達成することに成功した。これは1.5Vの乾電池を約3,500万個直列にした時の電圧に匹敵するものである。
高電界を達成する超伝導空洞の開発は、加速器の性能向上や省エネルギー・省スペース化を図るうえで大変重要である。次世代の高エネルギー物理学研究を行うために世界中の研究者が協力して進めている国際リニアコライダー(ILC)の概念設計作業においても最重要課題の一つとなっている。従来、ドイツのDESY研究所などが中心になって設計した超伝導空洞(TESLA形状)では、メートルあたり4,100万ボルトの加速電界が限界であった。今回、研究グループは、新しい高電界限界理論に基づき空洞形状を設計・製作することで、超伝導空洞における世界最高記録を達成した。また、超伝導加速空洞が放電を起こさずに高電界を達成するためには、欠陥の無い滑らかで超清浄な空洞内表面を造る技術が不可欠であり、この面でもKEKはBファクトリー加速器の前身であるトリスタン加速器で開発した電解研磨技術を基礎とする優れた表面処理技術を活かし、高電界達成に大きく寄与した。今回、高電界を達成した単一セル型超伝導空洞(図1)は、ハッサン・パダムジー教授が率いる米国コーネル大学のチームが設計・製作した空洞(リエントラント形状:RE)にKEKが開発した表面処理技術を適用したものと、KEKと米国ジェファーソン研究所、ドイツDESY研究所が共同で形状設計し、KEKの機械工学センターが製作した空洞(低損失形状:LL)の二種類である。絶対温度2度の環境において、RE形状はメートルあたり5,230万ボルト(Qo※3)=0.97×1010)、LL形状はメートルあたり4,730万ボルト(Qo=1.13×1010)の加速電界を達成した(図2)。この値はこれまでの記録を大幅に更新するものであり、超伝導加速器の専門家の間では現在の技術における理論的限界値として捉えられている。ILCの高電界超伝導空洞試験開発のアジアグループリーダーでもある齋藤助教授は、「この成功は、ILC高電界空洞の概念設計方針上、決定的に重要である。従来のTESLA形状では過去10年間、メートルあたり4,100万ボルトに電界が制限されて来た(図3)。その原因について専門家の間では、製作技術の問題と理論的限界説の2つに議論が分かれていた。我々はこれまでのデータを解析し、理論的限界説を2001年に提唱し、その制限の中でより高電界を得るためには最大表面磁場と加速電界の比が小さい新しい空洞形状しかないと指摘していた。今回の結果は、この指摘を裏付けるものである。」と述べた。KEKではこの成果をもとに、LL形状の9セル型超伝導加速空洞の開発を進めており、世界の加速器研究者から注目が集まっている。また、超伝導加速空洞設計の基本思想の変更が有効であったことを実証した今回の成果は、ILCが目指す加速電界の達成に十分な根拠を与えたばかりでなく、従来と比較し小型で省エネルギーの加速器が実現可能となることにより、幅広い分野での応用の道を拓くものと期待が寄せられている。
※1)
ニオブ:超伝導臨界温度絶対温度9.25度の単一金属。加工性に優れ空洞製作に適する。
※2)
超伝導加速空洞:加速空洞とは高周波をその中に供給し、それが作る電場で荷電粒子を加速する装置(加速管ともいう)である。超伝導加速空洞は、加速管を超伝導材料で製作したものである。超伝導特性から空洞内の高周波損失を著しく低減でき、省エネルギー性が向上する。
※3)
Qo:空洞内での電力損失の逆数に比例し、この値が大きいほど空洞内表面での電力損失が小さい。省エネルギー性の目安。

2009年8月27日木曜日

世界遺産 日光

2009年8月12日(水)

 久し振りに日光を訪れた。今回は、バスツアーなので、自由時間はあまりなかったが、現地でガイドが付いたので、今迄何度か見ていた場所に関していろいろ説明があり、それらの場所の由来、等について理解することができた。

 まず昼食を食べてから、「日光山輪王寺」の大本堂である「三仏堂」を参拝する。

 「輪王寺」の中心が大本堂で、「三仏堂」と呼ばれている。「三仏堂」という呼び名の由来は、3体の本地仏-ほんじぶつ-をまつっていることによる。寺伝によれば、慈覚大師円仁が入山したときに、比叡山の根本中堂を模して建立したと伝える。山岳信仰にもとづき、日光の三山つまり「男体山」(なんたいさん)、「女峰山」(にょほうさん)、「太郎山」(たろうさん)を神体とみて、その本地仏である「千手観音」(男体山)、「阿弥陀如来」(女峰山)、「馬頭観音」(太郎山)の三仏をまつった。 現在、「三仏堂」で拝観できる本尊は、江戸時代初期のもの。当時の優れた技法がうかがわれ、本邦屈指の木彫大座像仏といわれている。3体とも金色の寄木造りで、台座から光背の頂まで約8メートルある。

 「三仏堂」は、創建以来、移築が繰り返された。創建当時は、稲荷川河畔の滝尾神社近くだったが、仁治年間(1240~1242年ころ)に鎌倉3代将軍「源実朝」によって現在の東照宮の地に移された。その後、元和3(1617)年の東照宮創建の折に、今の二荒山神社社務所の地にあり、現在のような大きな伽藍になったのは、慶安3(1650)年の落成のときである。

 そして、明治4(1871)年の神仏分離の際に、今の場所に移されることになった。しかし、当時の輪王寺は財政が苦しく、解体して運んだだけだった。それを嘆いた明治天皇のおぼしめしによって再建できたという。 現在の建物は、昭和29(1954)~36(1961)年に大改修している。数少ない天台密教形式で、間口33.8メートル、奥行き21.2メートルと日光山でいちばん大きい。屋根は銅瓦ぶき、堂は総朱塗り、柱は漆塗りのケヤキ材。 堂内には伝教大師、慈恵大師、慈眼大師の像もあり、また日光山祈祷所では毎朝欠かさず日光伝来の護摩が修されている。

 続いて、「東照宮」を参拝する。やはり「世界遺産」として登録された処だけに見るべきものは多いが、それにしても多くの観光客で溢れていた。

 ここでの興味は、「陽明門」の彫り物の説明と、三匹の「猿」を中心とする「猿」の彫り物に関する説明であった。

 本殿に昇って御参りすると共に、「眠り猫」の彫刻も見ることができた。そして、久し振りに「鳴き竜」を見てきたが、拍子木で打つと成る程「鈴」の鳴るような音が反響して聴こえてくる。

 そして、最後に「ニ荒山神社」を参拝する。ここが最も静かなところであった。

 本殿は、徳川2代将軍秀忠公が寄進した安土桃山様式の優美な八棟造りの元和5(1619)年に造営した当時のままの、ただ1つの建造物として、重要文化財になっている。 間口11メートル、奥行き12メートルで、7メートルの向拝(社殿の正面階段の上に張り出したひさしの部分)がつく。単層入母屋-たんそういりもや-の反り屋根造りで、黒漆塗りの銅瓦ぶき(創建当時は柿-こけら-ぶきか檜皮-ひはだ-ぶき)。正面は、千鳥破風-ちどりはふ-(屋根の斜面に取り付けた装飾用の三角形の破風)、向拝軒唐破風-こうはいのきからはふ-つきである。 本殿の四方は縁側で、内部は弁柄漆極彩色。内部は内陣・外陣と分かれて、内陣に神霊がまつられている。外部全面に飾り金具をほどこしているが、東照宮と比べると落ち着いた装飾である。 1間(約1.8メートル)1戸の平唐門、棟門の掖門-わきもん-、格子組みの透塀-すきべい-が本殿を囲んでいる。 ところで、本殿造営が2代将軍秀忠公の寄進でおこなわれたことは、明治35(1902)年の修理の際に発見された旧棟木片で確認された。そこには「御本線棟札」「御建立征夷大将軍-せいいたいしょうぐん-源秀忠公」と大書されており、「元和五年己未-つちのとひつじ-九月」の日付のほか、奉行、大工など工事責任者の名前まで書かれていたのである。 この旧棟木片は本殿とともに、明治41(1908)年に、また唐門・掖門・透塀・鳥居は昭和19(1944)年に、それぞれ国の重要文化財に指定されている。

 12時15分に日光カステラ磐梯店を出発し、3時に戻ってきたので、約3時間に亘る散策であったが、時間が大変に短く感じられた。

 バスへ戻る途中で「ニ荒山神社」門前の老舗茶屋「おきなや」で食べた天然氷は、「吉新氷室(四代目氷屋徳次郎)」のものだった。大変に美味しかった!因みに、注文したのは「氷レモン」。

 バスに戻る時間が迫っていて、注文を受けたのが「お婆さん」であったからちょっと心配したのだが。

 まず、氷が少なかったので、氷室から塊を取り出してきた。既に二つに切られているが手だけではちょっと離れなかったので錐を当ててから小槌で一塊を剥がし取って、もう一つを室に戻す。そのときの氷を見て、「立派な氷だなぁ」と思う。そして、取り出した塊を氷掻き器に載せる。昔懐かしい手動式の氷掻き器で削られた氷が山盛りで出された。

 氷の「切れ」が全く違っていた。「見た目」にも、そして「味」でも。

 そのときは知らずに食べたが、後で妻が「あれ天然氷よ」と教えてくれた。

 現代、日本で天然氷を作っているのは、日光3軒(吉新氷室(四代目氷屋徳次郎)・松月氷室・三ツ星氷室)、秩父1軒(阿左美冷蔵)、軽井沢1軒(渡辺商会)の全国でたった5軒だけ。 因みに、NTVの日曜日午後6時半からベッキーが出演していた料理番組で、子供が料理を覚えるために、その道のエキスパートに修行するというプログラムがあったが、そのとき、ある男の子が御父さんのために「天然氷」のオンザロックを飲ませたいというので、何ヶ月にも渡り、「天然氷」を作ることを匠に学んでいたことがあった。その場面を思い出す。

2009年8月19日水曜日

寒川神社 神嶽山神苑


2009年8月15日(土)
 8月になって漸く相模国一之宮「寒川神社」に御参りすることができた。今年は随分遅くに参拝することになってしまった。

 去年戴いた「八方除けのお守り」を納めてから本殿へ向かう。

 しかし、今日は、「薪能」が開催されるために舞台や観客席の設定が行われていて、境内の様子がいつもと大分違っていた。「賽銭箱」の位置もずらされていて、何か奇異な感じだ。

 参拝を済ませて、帰る途中で、「神嶽山(かんたけやま)神苑」公開中の案内があった。これまで参拝したときには、そのような場所は、なかったと思う。そこで、早速、その場所を訪れて見ると、入口で、「御祈祷を申込まれた方にのみ開苑しています」とのこと。それでは、「御祈祷」をお願いしてみようと思い立ち、生まれて初めて自分自身で「御祈祷」をお願いすることにした。

 「祈祷願い所」に行き、備え付けの用紙に諸事を書き込み、初穂料を納めて申し込む。

 御祈祷のカード7番と、「神嶽山神苑」入苑券を受け取り、「待合所」でしばし待機。最初は、数組が待っている程度だったが、私の後から、かなりの数の祈願者が入所してきた。煎茶とお供物を戴きながら、7番が呼ばれるのを待つ。

 待つこと15分程で、呼び出しがあり、ほとんど全員がソファの椅子から立ち上がった。みんな7組だったのだ。

 「寒川神社」の「御紋」入りの白い「羽織」(「ちゃんちゃんこ」の大きめのようなもの)が全員に配られたので、「羽織」を身に付けで前紐を蝶結びにし、流れている手水でお清めをしてから「拝殿」に入る。

 「寒川神社」の「拝殿」に入るのは、そして大きな神社の「拝殿」に入ること事態が、初めての体験である。「拝殿」に入ってから「椅子」に着座する。厳かな気分になる。やはり「神様」に御参りするという、ある種の緊張感は、なかなかによいものである。

特に、「神道」は、仏教寺院とは異なり、「仏像」のようなものが存在しないので、「拝殿」の奥にある「本殿」に祀られている「もの」、例えば、山、木、等のような「自然の対象物」を「神」としたものであるから、「神」と対面するということが実感できる(例えば、奈良の「春日大社」の「木の輪」、日光二荒山神社の御神体「男体山」、静岡・浅間神社の御神体「富士山」、等)。

 いよいよ御祈祷の始まりである。まず椅子から全員が起立して、見習い神主による「御払い」を受ける。

 続いて、二番目の上級神主が来て太鼓を打ち鳴らす。

 そして、最も偉い神主さんの登場。祭壇の直前に座り、多くの鈴が取り付けられた長い紐を震わせて鈴を鳴らす。ご祈祷が始まり、そして、参列者の住所、名前、そして祈願の内容が祈願した一人一人に対して読まれて行く。やはり神主さんがご祈祷されると雰囲気も違うし、厳かな気持ちになる。

 「拝殿」の祭壇の中央には「八咫鏡(やたのかがみ)」が置かれていて、祭壇の下の両脇には、「狛犬」らしからぬ「狼犬」のような「犬の彫り物」が左右対称の位置の置かれている。これは初めて見る「犬の彫り物」である。

 先の偉い神主さんが再び長い紐を震わせて鈴を鳴らしてご祈祷が終わると、先の見習い神主さんから各自が「榊(さかき)の枝」を受け取り、祭壇前の台に「榊の枝」を置いてニ礼ニ拍してから御祈りを行い一礼したら終了となる。

 「羽織」を巫女さんに返却したら、終わりかと思っていたら、名前が書かれた「八方除けの御札」、「御神酒」、「お箸」、「お守り」、そして「浄め土」、等が入っている袋が用意されていた。それならば、納めた初穂料は、さほど高くはないと思った。

 「拝殿」から出て、いよいよ待望の「神嶽山神苑」を見学することにする。

 「神嶽山神苑」は、「寒川神社」が「本殿」の造営10周年を記念して平成17年から進めてきた「神嶽山」周辺整備が竣工して2009年8月2日(日)に一般への開苑が始まった。

 「神嶽山」は、「寒川神社」の「本殿」の裏手に位置する「山」で、その一角には、同神社の起源と深い関わりを持つとされる神池「難波の小池」が位置している。

 「難波の小池」の水は、毎年1月2日の「追儺(ついな)祭」で神前に供えるとともに、邪気を祓うため境内に撒かれる神聖なものである。

 「神嶽山神苑」は、「神嶽山」や「難波の小池」のほか、周辺に「浄め土受所」や「手水舎」が設置されている。

 その奥には、日本の伝統技術を結集した「池泉回遊式庭園」が造成されている。庭園内には、中央に位置する「八氣(はっき)の泉」を囲むように、茶屋「和楽亭(わらくてい)」や茶室「直心庵(ちょくしんあん)」、八方除の資料を展示した「方徳資料館」、そして雅楽や舞楽の演奏を行う「石舞台」がある。
 また、「土橋(どばし)」と「石橋」の二つの橋が架けられていて、「石舞台」を含む厳粛な空間と、「茶室」や「資料館」などの憩いの空間とを分けて構成されている。

 上述した「方徳資料館」は、「八方除」の資料を展示していて、一見の価値がある。「八方除」には「古代朝鮮」から渡来したと思われる「陰陽師」が係わっていて、どうやら「古代朝鮮」の「百済」と「寒川神社」との係わりが暗黙のうちに示されていると思われる。

 「庭園」を散策し、「方徳資料館」を見物した後、茶屋「和楽亭」で御茶を戴くことにした。干菓子も二種類付いていて、なかなか上品な味だ。そして御茶もなかなか美味しい「薄茶」である。先月、「東慶寺」の「寒雲亭」で戴いたものによく似た味の御茶で、きっと同じ御茶であると思う。

 茶屋「和楽亭」からは、「池泉回遊式庭園」の中央に位置する「八氣の泉」がよく見渡せる。庭園内に在るいくつかの滝も綺麗な流れを育むように造園されていて、一瞬「京都」にいるような雰囲気になる。秋は、さぞ綺麗だろうと思われる。また、「土橋」の上からは、「本殿」の様子をよく眺めることができる。

 残念ながら茶室「直心庵」は、公開されていなかったが、なかなか立派な茶室である。せっかく「神嶽山神苑」を公開しているだから、ここも見学できるようにしてくれたらと、少し残念に思う。

 「神嶽山神苑」の一般への開苑は、2009年の年内は、11月30日(月)まで。入苑には、「祈祷の申込み」が必要である。なお、12月から3月までは閉苑となる。

2009年8月11日火曜日

茶の湯1



 鎌倉・東慶寺の茶室「寒雲亭」にて、武者小路千家の正教授の先生の指導による「体験茶道教室」に参加してみた。
 「東慶寺」の受付で支払いを済ませ、受付に待機されていた先の同席者の一人(男性)に案内されて「寄付」に入る。

 ここで、案内して戴いた方と対話する。彼は「東慶寺」で庭、等の世話をして働いているという。

 茶室「寒雲亭」は、京都の「裏千家」にある茶室と同じ名前であるが、この「東慶寺」の「寒雲亭」が元々京都の「裏千家」にあったもので、明治時代、東京の久松家に移築され、その後、鎌倉・材木座の堀越家を経て昭和35(1960)年、堀越家から寄進されて「東慶寺」に移築されたものである。「寒雲亭」には、「真行草(しんぎょうそう)の天井」、その草にあたる船底型の天井の下には、「千宗旦」筆の「寒雲」の扁額、そして「櫛形の欄間」が施されている(平成6(1994)年改修)。

 靴下を履き替えて待機する。そのうち、既に数回に亘り教室に参加されている3名の女性が到着した。今日の参加者は、私を含めて5名であるが、初めて参加するのは、私一人であった。

 暫くすると、今回の教室参加に際してメールで何度が交信したことがあるIさんが「寄付」に見えられたので挨拶をする。

 ちょっと雑談をした後、「寄付」を出て「草鞋」を履き、「露地」を通って「茶室」へ向かう。苔の生えている「露地」はなかなかみごとで風情がある。これは、初心者の私のために行ったものであるが、教室への参加の回数が重ねられると、どうやら省略されるらしい。

 「露地」を通り抜けると「茶室」の茶室の「入り口」(立ったまま入れる「貴人口(きにんくち)」)に到る。「踏み石」で「草鞋」を脱ぎ、「扇子」を「貴人口」から「広間」に入ったところのちょっと先に置いてから軽く会釈をして「広間」に入る。

 「広間」に上がったならば、まず、「床の間」の前に進み、「掛け物」の前で「扇子」を自分の膝前に置いてから、軽く会釈をして、「掛け物」を拝見する。
 「掛け物」は、東慶寺の前住職「釈宗演」による書であった。(後でそれが判った。そして、書かれている字とそれらの内容の説明があった。)

 続いて、竹筒の「花入れ」の正面に向きを変えて、「扇子」を自分の膝前においてから、やはり軽く会釈をして、「花」を眺める。「むくげ、だなぁ」と気付く。しかし、それに添えられている花はわからない。(後で聞いたが忘れてしまった)

 そして、「通り路」と仮定されている畳の上を歩いてから、自分の席まで歩き、そこで向きを変えて着座する。自分の膝と前の畳の縁との「間隔」は、手のひらが入るくらいの「間隔」で座る。座ったら「扇子」を自分の膝前において、軽く会釈をする。手の付く場所は、かならず自分の正面で手をつくこと。そして、左脇に「懐紙をいれた持ち物」、そして右脇に「扇子」をそれぞれ置く。

 枕が配られたので御尻の下に敷く。これで正座が大いに楽になる。すると自然と姿勢もよくなってゆく。

 全員が着座した後、先生から御挨拶があり、早速、生菓子が銘々皿にて配られた。今日は、季節の「水羊羹」。銘々皿は、それぞれの人の「縁の外」に置かれている。そして、「冷たいうちに」ということで、銘々皿を「縁の内」に置いてから、皿の向きを変えて、「水羊羹」を頂戴する(なかなか美味しい。(どこのだろうか。北鎌倉「こまき」のものかなぁ)。

 いよいよ、お点前であるが、すでに亭主の方は、最初の御茶を準備している。
 先生を除いて考えると、正客から順番に御茶の御点前が始まった。今回の教室では、私を案内してくれた男性が正客となった。

 まず、正客が席を立ち、茶碗を亭主のところまで取りに行く。作法が始まった。無事に御茶を頂戴し終えたようだ。

 次いで、二番目の客が茶碗を亭主のところまで取りに行く。そして、無事に御茶を頂戴し終えた。
 そして、私の番であるが、私は初心者なので、半東の方が、亭主のところから茶碗を運んできて下さった。

 私の膝前の縁の外に茶碗が置かれた。ここで半東の方に軽く会釈をする。

 次いで、茶碗を縁の内に取り込む。このときは自分の膝右手前に茶碗を置く。そして、次の客(左側)との間に茶碗を移し、「お先に」と会釈して、茶碗を自分の正面点前に置き換えてから、亭主に「お点前頂戴いたします。」と会釈してから右手で茶碗を持ち、左手で茶碗の台を支えから、胸元近くに運び、時計方向に二度(約90度)回転させて、正面の絵を移動させてから茶を頂戴する(飲み干す:何口で飲み終わってもよい)。

 飲み終えたら、飲んだところ(口)を指で拭い、懐紙で指を拭き、茶碗を半時計方向に二度(約90度)回転されて、正面の絵が自分に向くようにする。

 ここで、茶碗を眺めてもよいが、懐紙を下に敷いてからその上で眺める。これは、茶碗の中に残っている御茶が多少こぼれても大丈夫なようにするためである。

 綺麗な絵柄の茶碗である。妻が持っている茶碗に、かなりよく似ていたが、その絵柄をあまりよくは覚えていない。

 眺め終わったら、一度、縁の内で茶碗を自分の点前に置き、正面が受け取る側の方になるようにして、縁の外へ置く。そして、半東の方に会釈をして。私の番が終わる。

 後は、残りの人が終わるまで、お点前をしている亭主の道具の使い方や作法を眺めることにした。(心の中では、茶室から外の「露地」を眺めて見たかったのだが)。

 「炭」で炊かれている風呂に載せられた釜には、すでにお湯が沸いている。御点前の数に合せて、「水差し」から水を足している。「炭」が炊かれていれば、そこには「香」があるはずだが、緊張していたので、私には「香」を感じることができなかった。

 綺麗な瑠璃色のガラス製の大きな「水差し」で円形の蓋には蝶番が直径に沿って二つ付いていて半円形のいれかを開けることができるようになっている。

 お点前が一通り終わってから正客がその名前及び由来を尋ねた(棗、茶杓の拝見を申し出、問答するというものであるが、この手順にも作法がある)茶道具が回ってきた。

 棗は、「夕顔」の蒔絵があしらわれた「夕顔」という名の棗で、蓋の裏側は銀で覆われている。棗の中の御茶も綺麗に盛られていて、お点前で使われた部分がみごとに取り出されていることが一目でわかる。茶杓は、東慶寺さんのものである。

 お点前が終わり、亭主が片付けを終えるまで皆で注目。

 そして、先生を囲んで、雑談の一時となる。

 ここで茶道入門教室は終了となる。そのまま居残って4名の生徒さんの習う様子を見学してもよいとのことなので、見学することにした。

 「広間」は、「京間」の八畳で、かなり広く感じられる。また、夏の茶室らしく、簀戸(すど)で囲まれていて、見た目には涼しげであるが、実際には、戸を開けない風が通らないので涼しくない。
 後で判ったことだが、「むくげ」は、「千宗旦」が好んだ花であるという。

 境内からは、散策する観光客の声が時折聞こえてくるが、静まり返ると、鶯の綺麗な鳴声が「谷戸」に木霊して聴こえてくる。いつもは参拝するだけの「東慶寺」を、違った形で楽しむことができた。

 今回の教室では、既に何回か参加されている4名の方と同席させて戴き、初めて参加するのが私一人であったので多少緊張したが、同席した人々の作法を見ながら、そして、指導してくださった方々のお陰で何とか一通りの作法を体験することができた。

 せっかく学んだ「茶席内での作法」及び「客ぶり」は、やはり実績を重ねることが必要であると思うので、これからは、茶室「寒雲亭」にて催される「月釜」に機会を見て参加したいと思っている。扇子、懐紙、そして、それらを入れるものを買っておこう。

 私の目的は、「茶を楽しむ」(茶席で御茶を頂戴する)ときの作法を学ぶことにあったので、その目的にかなったものであった。しかし、やはり一通り茶道を習得すべきであろうと感じた。機会を見計らって、続けて教室に参加したいと思う。

2009年7月17日金曜日

科学技術週間@つくば

KEK-Belle Detector site

 平成21年度(第50回)「科学技術週間」の一環として開催された「つくばの研究機関」の特別公開に出かけてきた。

 目的は、2008年のノーベル物理学賞を受賞した益川・小林理論を実験的に検証した「KEK」(高エネルギー加速器研究機構)の実験施設の一つである「Belle」測定装置を見学することである。

 「KEK」の「コミュニケーションプラザ」には、小林誠教授が受賞された「ノーベル物理学賞」の「メダル」(大きさ:直径66mm・重さ:200g)のレプリカ、「賞状」、そして、御二人のサインが書かれている「益川・小林の論文」が一緒に展示されていた。

 ちょうど実験中だったので、残念ながら「Belle」測定装置の中枢部分を直接見ることはできなかったが、「Belle」測定装置の概観を直接見ることができたので感激した。

 また、今回の一般公開ツアーでは、特別に「Belle」の「コントロールルーム」にも立ち入ることができ、ちょうど「コントロールルーム」の「ディスプレー」にはリアルタイムで対生成されている「素粒子の軌跡」が瞬時に映し出されてくるので感動的であった。

 「素粒子の軌跡」は、私が米国の大学及び大学院に留学しているときに実験していた加速器を利用した重イオン-原子衝突により生成されるX線のスペクトル(累積形)とは全く異なる映像であるが、実験室そのものの雰囲気は、研究員または大学院生と思われる女子二人が「Belle」のベビーシッターを行っていたので、「TUNL(Triangle Universities Nuclear Laboratory)」の「実験室」と同じようなものであった。

 「KEK」のもう一つの施設「Photon Factory(PF)」(フォトンファクトリ)のいくつかのビーム端の実験施設を階上から眺めることができた。実験施設の数から様々な研究が行われていることが一目瞭然である。しかし、こちらは、「TUNL」のビーム端の施設の雰囲気とあまり違いがなく、大変に懐かしい光景であった。
 米国留学時代に過ごした「加速器を利用した物理実験」の世界にしばしば郷愁を感じた一日であった。

2009年7月9日木曜日

ノーベル物理学賞授賞記念講演

「ノーベル物理学賞受賞記念 小林誠・益川敏英講演会」

 2009年3月11日(水)東京・有楽町にある「朝日ホール」(マリオン11階)にて午後6時~8時半にわたって開催された、朝日新聞社主催の「ノーベル物理学賞受賞記念 小林誠・益川敏英講演会」に出席した。朝日新聞(朝刊)の案内を見て申し込み、見事に当選したからである。幸いにも前から4番目の列の座席に座ることができたので小林誠・益川敏英の両先生をはじめ、各講演者の顔や姿を間近に見ることもできた。この講演会への参加者は、約750名と翌日の朝刊に発表されていた。

 講演に先立ち、「高エネルギー加速器研究機構(KEK)」のビデオが上映された。縮小版なので、部分的にカットされていたが、そのカットされた部分も含めてもう一度じっくりと見てみたいと思うような内容であった。

 また、今回の講演では、高エネルギー加速器研究機構理事の高崎史彦先生の講演も聴くことができたのは、予想外の喜びであった。今回のノーベル物理学賞は、理論物理学者が受賞したが、多くの人々に実験物理学の重要性を改めて認識してもらいたいものである。

「ノーベル物理学賞受賞記念 小林誠・益川敏英講演会」
東京・有楽町「朝日ホール」
2009年3月11日(水)
(前半)記念講演
1.「6元クォーク模型誕生のころ」
 小林誠 高エネルギー加速器研究機構特別栄誉教授
2.「科学とロマン」
 益川敏英 京都産業大教授
《休憩》
(後半)
3.「KEK」における小林・益川理論の検証
 高崎史彦 高エネルギー加速器研究機構理事
4.パネルディスカッション
「宇宙と人間」
小林誠、益川敏英、高崎史彦、清水義範 小説家、高橋真理子 司会

小林・益川の両氏の講演内容は、いろいろな雑誌や講演で何回も採り上げられているものが中心になっているが、やはりそれぞれに特徴があって何度聴いても面白い。

小林誠先生の講演は、前回聴いているので、重複するかなぁと思っていたが、やはり「小林・益川理論」の概説であった。今回は、小林誠先生のいろいろな人間的な側面をお聴きしたかったので、ちょっと残念である。

益川敏英先生の講演は、ところどころにユーモアを交えて、大変に面白く聴くことができた。講演の表題は、例えば、京都産業大学の雑誌に掲載されているようなものであったが、実際に話された内容は、益川敏英先生のいろいろな人間的な側面と、理論物理学者としての側面とが随所に現われたものであった。また、その内容の一つとして、南部陽一郎先生の研究を尊敬していることが大いに感じられた。「素粒子の世界大会(東京で開催)」の名誉あるSummary Speech(閉会のときの挨拶)で南部陽一郎先生が、「CP対称性の破れ」に関する「小林・益川理論」を述べられたことがかなり印象に残っている様子であった。

以下に、益川敏英先生の講演内容の一部を箇条書きにする:
(1)当時の世界の理論物理学の潮流から見ると、坂田グループ(名古屋大学の素粒子研究室の理論物理)は、「一周遅れの先頭を走っていた」。そして、大学院では、講師が「場の理論」を研究していて、我々にそれを詳細に教えてくれていた。
(2)「CP対称性の破れ」の問題は、研究テーマを捜しているときに、偶然に見つけたもので、最初はあまり興味がなかった。
(3)小林・益川理論を考えていたときの思考プロセス、即ち構築した4つのクォークのモデルでは「CP対称性の破れ」がうまく証明できなかったので、6つのクォークのモデルを考えつくようになった思考プロセスを、一般向けに大雑把に話されたが、もっと具体的な物理的思考プロセスを聴いてみたいと思ったので、ちょっと残念である。4つのクォーク・モデルを構築して「CP対称性の破れ」を証明しようとしたときにかなり計算に苦労したので、6つのクォークのモデルを用いたときには、あまり計算に苦労しなかったと話された。
(4)京都大学時代は、京都大学職員組合の書記長として活躍していたので、早朝に、「理論的な研究」をしてから(注:たぶん、前夜に行っていた「理論的な研究」を続行したと思われる)、日中は、その「仕事」が多く、それが一段落してから、「研究室」に戻って、夜中の1時頃まで、毎日「理論的な研究」を行ってから帰宅したという。
(5)チャレンジしたくなる問題を見つけたときが最も“楽しく”、その問題を解決してしまったときが最も“つまらない”と言われて会場が大いに沸いた。また、一つの問題を解決してしまったら、その問題をよく詳細に論証したり、突き詰めたりするのではなく、また新たな別の問題にチャレンジすることが好きである旨を述べられた。
(6)最先端の研究の一つとして「超対称性理論」に興味を持っている。
(7)有名な理論物理学者W. Pauliの話の後に言われたことであるが、人間は、人間として優れた人格の育むべきであり、他人(の研究)を批難し、かつ自分(の研究)が世界の中心であり、自分以外の人間(の研究)は、存在することに値しないというようなことを公然と言い切るような、傲慢な(研究)者がもっとも嫌いなタイプの人間である。

この講演を聴いた後、「好きなものはとことん好き」、「嫌いなものは絶対に嫌い」であると、ものごとをハッキリ言える、人間味溢れる益川先生に大いなる魅力を感じた。

ちょうど講演当日の朝から通勤電車の中で、難解であると思っていた益川敏英・著の『いま、もう一つの素粒子論入門』(パリティブックス・丸善・1998年)を読んでいるが、これがなかなか面白いと思うようになってきた。

なお、今回の益川敏英先生による講演でも述べられていた「CP対称性の破れ」の研究に関する経緯については、ノーベル財団ウェブサイトの「Nobel Lecture」に詳細に記載されているので参照されたい。大変に興味を覚える研究の経緯である。

韓国伝統音楽


 私が韓国伝統音楽に本格的に興味を持つ切っ掛けとなったのは、2008年7月3日~12日の間に行われた韓国文化院が開催する韓国伝統音楽講座短期コース(全4回)で、「韓国国立国楽院」で「伽倻琴」(カヤグム)の「副首席奏者」を務める「李侑娜」(リ・ユナ)さんから「伽倻琴」を習ったことにある。

 2009年6月19日(金)に新宿・四谷に移転した「韓国文化院」で「韓国文化院開院30周年・新庁舎移転記念公演」を観てきた。

 公演は、「サムルノリ」を演奏するグループ四物広大(サムルグァンデ)による力強い熱気溢れる「キルノリ」という曲の演奏から始まった。その演奏は、力強さだけでなくそのハーモニーもまた素晴らしいものであった。私が興味を覚えている「チャング」をあのように演奏することもできるのかと驚かされた。
 「サムルノリ」は「四物の遊び」という意味で、地方ごとに異なる農楽の中でも必ず用いられる4つの楽器(ケンガリ、チン、チャング、プク)で演奏する。チン(鉦)は風を、プク(太鼓)は雲を、チャング(鼓の一種)は雨を、ケンガリ(小さい鉦)は雷を表現し、また、金属製の楽器は天を表し、木と皮の楽器は地を表すと言われており、4つの楽器が奏でる楽曲は、天地・宇宙を表現するものであるという。

 続いて、独舞「僧舞」(スンム)が趙恩夏(チョ・ウンハ)さんによって舞われた。この「僧舞」は、韓国の多くの舞の中でも特に見たかった舞であった。漸く念願が叶った。それも生演奏をバックに「僧舞」を視ることができた。趙恩夏さんの舞は、全体的に素晴らしかったが、その中でも太鼓を演奏しながらの舞いが特に印象的で、なかなか見ごたえがあった。

 「祝唱」が韓国の伝統音楽「パンソリ」の大家といわれる安淑善(アン・スックソン)さんの独唱と、韓国国立唱劇団の張宗民(チャン・ジョンミン)さんのチャングの演奏で行われた。「パンソリ」は、語りに近い形態で行われ、私の「ハングル」の知識がないために、どのような内容であるのかを理解することができなかったのが残念である。

 韓国ドラマ「英雄時代」で「パンソリ」の名手として「ソソン」(キム・ジス)が登場していたことを思い出す。

 「夕刻から夜明けが訪れるまで」という「ヘグム」独奏の楽曲がピアノの伴奏(テープ)で「李恩京」(イ・ウンギョ)さんによって演奏された。美しいメロディーがヘグムのモダンな演奏によって奏でられた。

 「25弦伽倻琴」と「テグム」のための「メナリ」という楽曲は、金美卿(キム・ミギョン)さんによる「25弦伽倻琴」の演奏、張侊洙(チャン・グァンス)さんの「大琴」(テグム)、そして成知恩(ソン・ジウン)さんの「杖鼓」(チャンゴ)による素晴らしい演奏が行われた。

 数々の演目の中でも特に注目したのは、韓国古楽器である「伽倻琴」の第一人者として知られ、また現代的な楽曲を自ら作曲して「伽倻琴」を演奏することでも知られている国立国楽管弦楽団の芸術監督で、梨花女子大学の名誉教授である「黄秉冀」(ファン・ビョンギ)さんによる演奏である。今迄聴いた伝統的な「伽倻琴」の演奏とは異なり、モダニズムが随所に表されている独特の演奏で「沈香舞」を聴かせてくれたことだ。非常に素晴らしい演奏で多くの聴衆が魅了された。朴天志(パク・チョンジ)さんの「杖鼓」の伴奏も見事であった。

 そして、韓国国立国楽管弦楽団による演奏で、「伽倻琴」等の韓国国楽の楽器が見事にハーモニーを奏でる素晴らしい演奏であった。

2009年7月8日水曜日

弘明寺観音


坂東札所第十四番「瑞応山弘明寺」(高野山真言宗)

 「弘明寺」は、散歩の途中にいつも御参りしている御寺さんであるが、2009年7月5日(日)に御本尊の「十一面観音菩薩像」(元:国宝、現:重要文化財)を初めて直接拝んできた。

 御本尊の「十一面観音菩薩像」は、昭和三十三年に完成した防災安置堂に納められていて、堂内の入口で拝観料を払うと、御堂の内々陣に入って直接拝むことができる。

 御本尊の「十一面観音菩薩像」は、僧「行基」が一刀三礼のうちに刻み奉った「鉈彫り」の観音さまと伝えられているが、実際には、その彫刻の形式から、「平安末期の作」と言われている。また、近年の調査で、御本尊の「十一面観音菩薩像」は、像高一八〇センチ、関東地方特産のカタ木の「ハルニレ」の木を彫った一木造りであることが判明した。

 「鉈彫り」は、十世紀から十一世紀にかけて関東地方に多く見られる仏像彫刻の一形式であるが、御本尊の「十一面観音菩薩像」は、顔から足の先まで、丸ノミでシマ目のノミの跡をはっきり表わしたもので、「鉈彫り」の仏像の中でも最も優れたものとして知られている。

 近くで御本尊の「十一面観音菩薩像」を拝むと、御優しい御顔をされている。何度か見ていると、微笑んでおられるように見えるときがある。

 いつも御堂には御参りするが、時々は、御堂の内々陣に入ってこの御本尊の「十一面観音菩薩像」を直接拝みたいと思っている。いつも身近におわす素晴らしい観音さまである。

冷泉家 王朝の和歌守展

 「和歌」との出会いは、ある日、「東海道」の「大磯」を歩いていたときに、「鴫立庵」という場所に立ち寄り、歌人「西行」の歌に興味を抱き、彼に関する本を読んだことが、実質的に「和歌」に興味を覚える切っ掛けとなった。

 最近になって、「鎌倉」を散策するようになり、自然の中で「鶯」や「時鳥」等の声を聴くようになると、「和歌」に再び興味を覚えるようになってきた。

 鎌倉の「浄光明寺」を訪れたときに、「冷泉為相」の供養塔に墓参したことがきっかけとなり、歌人である「冷泉為相」及びその祖父であり有名な歌人でもある「藤原定家」の歌、特に「時鳥」を歌ったものに興味が湧いてきた。

 先に鎌倉文学館で見た「十六夜日記」を視たときにそれが書かれている美しい字体を見てから、作者「阿仏尼」に興味を覚えた。

 そして、「阿仏尼」が「冷泉為相」の母であることを知ることにより、「冷泉家」についても興味を覚えてきた。

 「冷泉家」は、「冷泉為相」を祖とする歌宗家である。

 「古今和歌集」、「新古今和歌集」を読み進んで行くうちに、好きな和歌の作者の歌人として「皇太后宮太夫俊成」、即ち「藤原俊成」が存在することに気付いた。彼の和歌を読んでいるとその情景が自然と浮かんでくるようである。

 この「藤原俊成」の息子(次男)が「藤原定家」で、そして「藤原俊成」の曾孫が「冷泉為相」である。

 そんな折、冷泉家時雨亭叢書完結記念・朝日新聞創刊130周年記念の催し物として「冷泉家 王朝の和歌守(うたもり)展」が「東京都美術館」で開催されることになった。この展示会は、「冷泉家時雨亭文庫」が所蔵する藤原俊成自筆『古来風躰抄』、定家筆『古今和歌集 嘉禄二年本』、定家自筆の日記『明月記』、等、国宝五件、重要文化財約300点をはじめて一堂に公開するものである。

 「冷泉家」は、平安時代末期から三代続けて勅撰撰者(天皇や院の命で編まれる勅撰和歌集の撰者)となった藤原俊成、定家、為家を祖にもち、歴代が宮廷や武家の歌道師範をつとめた家柄である。京都御所にほど近い、現存最古の公家邸宅である同家の蔵には、800年の伝統のなかで集積されてきた勅撰集、私家集(個人の歌集)、歌学書、古記録、等が継承されている。それらの書物は、将来にわたる保存継承のため、昭和56年(1081)に財団法人冷泉家時雨亭文庫に移管され、調査と並行して平成4年(1992)から「冷泉家時雨亭叢書」として写真版複製の刊行がなされてきた。

 また、東京展会期中の平成21年11月14日(土)には、「冷泉家」に伝わる七夕の伝統行事「乞巧奠」が東京文化会館で初公開されることになっている。

 「乞巧奠」は旧暦7月7日に同家の庭で行われ、「蹴鞠」、「雅楽」、「和歌」などの技芸を手向け、技が巧みになるよう祈る「歌会の儀式」である。

 今回、再び見ることができないと思われるこれらの二つの催し物を、観覧する予定である。

「冷泉家 王朝の和歌守(うたもり)展」
冷泉家「奇跡の文庫」の精髄国宝・重要文化財を一堂に
【 会期 】 2009年10月24日(土)-12月20日(日)
【 会場 】 東京都美術館 企画展示室
【 主催 】 東京都美術館、財団法人冷泉家時雨亭文庫、朝日新聞社

「乞巧奠~七夕の宴~」 ~京都・冷泉家の雅~
曲目・演目:一部:蹴鞠(蹴鞠保存会)
 二部:雅楽演奏(絲竹会)
 三部:和歌披講(冷泉家門人)
 四部:流れの座(和歌当座式)(冷泉家門人)
【解説】冷泉貴実子
場所:東京文化会館
平成21年11月14日(土)
午後14:15開場
午後15:00開演

2009年6月30日火曜日

三井記念美術館


2009年6月28日(日)

 最近、古都「鎌倉」を散策するうちに、御寺で庭や花を眺めながら御茶を味わう楽しみを覚えてきた。

 きっかけは、「北鎌倉」にある「東慶寺」で「紅白」の「梅の花」を眺めながら、茶室で御茶を味わったときであると思う。正式な茶室での御茶ではなかったが、生菓子を戴き、そして、御茶を味わうときに感じる「自然」からの語りかけが、私の心を和やかにさせてくれる。

 そのような心の和みを生み出してくれる一連の「御茶」との出会いから、「茶道」に興味を覚えてきた。また、御茶のときに生菓子を味わう楽しみも「茶道」に興味を覚えた要因の一つである。例えば、北鎌倉では「こまき」、鎌倉では「美鈴」の生菓子が私の好みである。

 最近読んだ、川端康成の小説「千羽鶴」は、「茶道」で用いられる「茶道具」(ここでは、主に「志野」の「茶碗」と「水差」)がややもすると、登場する人物よりも、主人公であるように思われる内容であったが、この小説が「茶道具」について勉強するきっかけとなった。

 「茶道具」に興味を覚えたのは、「茶道具」を通じてそれらを所持していた歴史上の人々との直接的な「繋がり」を感じるからである。例えば、「茶碗」、「茶入」、等は、実際にそのものを使用していたのであるから、ある意味で時空を越えてそれらの人々と「茶碗」、「茶入」、等を共有することになる。

 そんな折、東京・日本橋「三井本館」の7階にある「三井記念美術館」で開催されている江戸時代の豪商「三井家」に伝わる「茶の湯」の名品を紹介する展覧会に、その最終日に行ってきた。
 「三井家」の初代「三井高利」の子孫である三井11家のうち、北家、室町家、新町家に伝来する茶碗、茶入、花入、茶の湯釜、書画、等、約80点の「茶道具」を展示している。

 展示品の中でも、特に私が興味を覚えたのは、日本に二つしか存在しない「国宝」の国産「茶碗」の一つを観ることにあった。

 会場に入り、その優美な姿で多くの入場者の注目を集めているのが桃山時代に作られた「花入れ」である伊賀耳付花入「業平」。この「花入れ」は、室町家12代・三井高大の妻が、亡くなった夫をしのんで、平安時代の貴公子「在原業平」にちなんで命名したものであると言う。伊賀耳付花入「業平」を観た後は、会場も多少混雑しているので、他の展示品の観覧を後回しにして、早速、その御目当ての「国宝」の「志野茶碗 銘卯花墻」の展示されている場所に向かう。

 「志野茶碗 銘卯花墻」は、室町家からの展示品であり、「織田有楽斎」(織田信長の実弟、1547~1621)が京都「建仁寺」境内に1618年頃に建てた茶室「如庵」の内部を復元した展示室を囲っているガラスから少し離れた位置の畳の上に、敷物に載せられて展示されていた。遠からず近からず、丁度よい位置に置かれている。

 御目当ての「国宝 志野茶碗 銘卯花墻」には、一目見て魅せられてしまった。この茶碗を観る方向としては、正面と「如庵」の「躙口」(にじりぐち)からの方向との二方向である。正面からは、丸みを帯びて見えるが、躙口からは、「志野茶碗 銘卯花墻」の茶碗の横長方向の度合いが感じられて、その形もなかなか味わい深い茶碗のように思えた。ちょうど前日の土曜日に知人のところで「志野」を見せてもらったが、それを手に取ったときの感触を思い出してみた。「志野茶碗 銘卯花墻」の茶碗は、どのような感触があるのだろうか。
 
 銘の「卯花墻」は、茶碗の胴に施された「四つ目垣の文様」を見て、「片桐石州」が「やまさとのうのはなかきのなかつみち、ゆきふみわけしここちこそすれ」と筆した古歌に由来する。その古歌の小色紙が、箱の蓋裏に貼りつけられていたのでこの銘がある。

 因みに、「うのはな」(卯花)は、見た目が雪のようなので「雪見草」(ゆきみぐさ)とも呼ばれている。花言葉は「謙虚」。この国宝の国産茶碗に相応しい花言葉である。

 やはりどのような道具でも、使ってみなければそれが持つ真の味わいを楽しむことはできないと思う。「志野茶碗 銘卯花墻」は、茶室「如庵」を模した展示室に置かれていて、その内装との調和が素晴らしいと思った。「仏像」を参拝するときに、それらが祀られているお寺で拝観するのが最も素晴らしいのと同じであると思う。因みに、犬山市に存在している本物の茶室「如庵」も「国宝」である。

 なお、茶室「如庵」を模した展示室には、掛け軸として、一山一寧筆の「一山一寧墨蹟」が展示されていた。「花入」に季節の花が飾られていれば、殊の外素晴らしい雰囲気だったように思えたのだが。

 その他の展示品としては、「表千家」とゆかりのある北家からも数々の名品が展示されている。

 特筆すべきは、大名物 唐物肩衝(からものかたつき)茶入「北野肩衝」(重要文化財)。茶入「北野肩衝」は、三井家に数多く伝承されている茶道具の中でも、稀代の名品とされている。足利義満、義政など足利将軍家の所蔵品を伝承する「東山御物」の一つに数えられていた。その後、天正15(1587)年に、史上最も名高い「北野大茶会」が開かれた折に出品され、「豊臣秀吉」の目に留まったという。三井家が「北野肩衝」を手に入れたのは江戸時代中期になってからのことで、現在では「三井記念美術館」の「名宝」として所蔵されている。伝来は、足利義政~三好宗三~津田宗達~烏丸大納言~三木権太夫~三井八郎右衛門~三井宗六~酒井忠義。そして三井記念美術館。

 そして、「本阿弥光悦」が作った黒楽茶碗「雨雲」(重要文化財)も北家からの一つである。「本阿弥光悦」の茶碗としては、もう一つの国産茶碗の「国宝」である「国宝 白楽茶碗 銘不二山」が有名であるが、この黒楽茶碗「雨雲」もなかなか魅力的な茶碗で、口端が鋭く、腰に膨らみがあり、そして高台が低く小さく削られていて、御茶を美味しく戴けそうな形をしている。また、口まわり、等は、釉掛りが薄いという特徴を有している。

 「黒楽茶碗 銘俊寛 長次郎作」(重要文化財:桃山時代・16世紀 室町三井家旧蔵)。これは、「千利休」が薩摩の門人から「長次郎」の茶碗を求められ、3碗送ったうち、この茶碗を残し他の2碗が送り返されてきたので、鬼界ヶ島に残された「俊寛僧都」に見立てて命銘したという。「長次郎」の代表作の一つ。

 掛け軸として、「六祖破経図 梁楷筆 大名物」(ろくそはきょうず・りょうかいひつ・おおめいぶつ)が展示品として目に留まった。梁楷(生歿年不詳)は中国南宋時代の画家。人物画や山水画を得意とした。日本では室町時代以降、牧谿や玉澗とならび、もっとも尊重された中国画家の一人である。本図は、禅宗の第六祖惠能(638~713)が経典を破る姿を描いている。「豊臣秀吉」、「西本願寺」の所蔵を経た後、「松平不昧」へと伝わった。その後、昭和7年(1932)に出雲松平家より新町三井家の所有となった。

 また、「織部焼」で知られている古田織部が書いたものの「消息 修理宛」の「掛け軸」が気になった。それは、「千利休」の弟子でもあり、優れた茶人としての「織部」その人に対する興味なのかもしれない。

 今回の「展示」で感じたことは、確かに「茶道具」は美しいが、それらを使ってこそ、「茶道具」が醸し出す「本当の美」(機能美を含む)を堪能することができるのではないのかということだ。それは、私が「茶道」を嗜んでみればより理解することができると思う。  

2009年6月25日木曜日

鎌倉歴史散策1

 「鎌倉」を訪れる人々は、それぞれが異なる目的を持っているようであるが、「鎌倉」を散策する楽しみは、「鎌倉幕府の歴史」を学ぶことにより、一層面白くなってくる。街中を歩いていると、いろいろな場所に「石碑」が設置されていて、その場所に纏わる事柄・歴史、等を学ぶことができる。

 今日は、「鎌倉生涯学習センターのホール」に「永井路子」さんによる「今、鎌倉をかえりみて」~衣張山のふもとの景観と釈迦堂口遺跡~というテーマの講演を聴きに行く。

 発掘調査中の「釈迦堂口遺跡」は、「北条氏名越亭跡」と推定され、中世の面影が色濃い「まほろば」の地である。

 講演の内容は、前半は、主に「永井路子」さんと「鎌倉」との係わりについて、後半は、「永井路子」さんの直木賞作品《炎環》に描かれている「源氏」と「北条一族」との係わり、そして「源頼朝一族」及びその有力な「御家人」達を滅亡させて実質的に「鎌倉幕府」の実権を支配した「北条一族」の野望に関する内容に関するものであった。

 今回の講演は、宅地を開発する予定地が「北条時政の釈迦堂口邸址」を中心としたものであり、鎌倉の歴史上、重要な場所であるから、「いざかまくらトラスト」等が中心となってその保存を支援する目的の講演であったように思える。個人的にも「北条時政の釈迦堂口邸址」がぜひ保存可能になることを願っている。

 講演が始まるまで時間があったので、小雨の中、すぐ隣にある《大巧寺》に立ち寄る。本堂のすぐ隣の建物からは、御能の稽古をしているらしく、その独特の声の様子が伝わってきた。

 講演の帰り、鎌倉幕府の二代将軍「頼家」の嫡男「一幡」とその母である「若狭局」の実家にあたる代表的御家人の一人であった「比企」一族の終焉の地に建立されている《妙本寺》を参拝した。

2009年6月24日水曜日

韓国と日本の伝統芸能

 「横浜能楽堂」で開催された「日韓古典芸能の名作」を観に行ってきた。この催し物では、「日本」と「韓国」の「古典芸能」、特に「弦楽器」、「管楽器」、「舞踊」の各分野を代表する演者により素晴らしい演奏や踊がそれぞれ披露されて、十分に楽しむことができた。

≪弦楽器≫
「崔玉山流伽 琴散調」 伽 琴:キムヘスク

「さらし」 箏:萩岡松韻、武藤松圃
 三弦:萩岡未貴

≪管楽器≫
「平調会相 上霊山」 ピリ:チョンジェクク

「高麗双調音取」 篳篥:中村仁美

「白浜」 篳篥:中村仁美 高麗笛:八木千暁

≪舞踊≫
「草笠童」 舞踊:イヨウム、イサンユン、パクヘジ 杖鼓:ユ・ギョンファ、ピリ:アン・ヒュンモ、ヘグム:チェ・テヨン

「珍島太鼓舞」 舞踊:ヨムヒョンジュ、ヤンヘソン、アンサンファ ほか 杖鼓:ユ・ギョンファ、ケンガリ:ファン・ミンワン、テピョンソ:アン・ヒュンモ チン:チェ・テヨン、
 鼓:シン・ヒョンシク

「サルプリチュム」 舞踊:ヤンソンオク 杖鼓:ユ・ギョンファ、牙箏:シン・ヒョンシク

「鶴亀」 舞踊:藤間恵都子、水木佑歌
 浄瑠璃:常磐津清若太夫、常磐津若羽太夫 三味線:常磐津文字蔵、常磐津齋蔵

 私自身、従来から好きな「韓国の伝統芸能」に加えて、「日本の伝統芸能」の分野の一つである「琴、三弦」や「日本舞踊」に大変興味を覚えた。これは、自分としても新しい発見であった。特に、「琴、三弦」を弾きながら唄うものを聴くことの素晴らしさを感じた。

 また、「鶴亀」という日本舞踊を、通常は「長唄」で踊るものを、「常磐津」で踊るのを見ることができ、その煌びやかな舞に魅せられた。

2009年6月23日火曜日

御茶


 この頃、「鎌倉」や「北鎌倉」の周辺の散策を楽しみにしているが、機会がある度にお気に入りの「御寺」や「お店」で、気軽に「御抹茶」を頂くことにしている。今迄に御抹茶を戴いた御寺は、「円覚寺」、「浄妙寺」、「報国寺」、「東慶寺」、「明月院」、そしてお店は、北鎌倉駅前の「こまき」である。

 今年の二月に「北鎌倉」の「東慶寺」を参拝した。境内には、「白梅」と「紅梅」が咲きほこり、春の訪れがもうすぐであることを感じた頃であった。
 境内の庭に咲く「紅白」の「梅の花」を観ながら、「白蓮舎」の立礼席で「抹茶」と「紅梅」という「生菓子(練りきり)のセット」を楽しんだ。
 「紅梅」という名前の練りきりは、「北鎌倉駅」の駅前にある和菓子処「こまき」で作られているものだという。見た目にも大変に美しく、立礼席の前に眺める綺麗な「紅梅」を卓上に見事に蘇らせている。餡もほどよい甘さで、抹茶を頂くと口の中に残っていた「紅梅」の甘さがちょうど消えるような感じがする。「東慶寺」で「こまき」の生菓子と共に抹茶を頂けるのは、季節限定であるらしく、幸いであった。

 ここで、以前から疑問に思っていたことであるが、茶道では、「生菓子」と「干菓子」とはどのように使い分けされるのであろうか、というものである。
 その答えは、次の通り:
 茶道では、「生菓子」は、“主に”濃茶で出される菓子(主菓子)、そして「干菓子」は、主に薄茶で出される菓子(添え菓子)ということである。
 イベント等で設けられる「茶席」では、多くの場合「薄茶」が供される。このような「茶席」では(薄茶であっても)「生菓子」だけが出される場合が主である。なお、菓子を多く出す茶席であれば、「生菓子」(主菓子)と「干菓子」(添え菓子)とを一緒に出すこともある。

 最近、贔屓にしている上生菓子処が「鎌倉」にある。雪ノ下の「美鈴」というお店だ。少なくとも一月に一度は御邪魔して、月替りの上生菓子を買って帰る。ここでは、御抹茶を楽しむことはできないが、近くの「大仏茶廊」では、御抹茶と一緒に「美鈴」の上生菓子を楽しむことができる。

 一度、「美鈴」で御茶会用の御菓子を取りに来た若い女性に出会ったことがある。茶道を嗜むとは何とも羨ましい境遇である。

2009年6月22日月曜日

常楽寺

年へたる鶴の岡べの柳原
青みにけりな春のしるしに
                北条泰時

 JR「本郷台駅」で下車し、「旧鎌倉街道」沿いに「鎌倉」方面に向かって歩いて行き、信号機の「常楽寺」という標識で右折してから暫く歩くと、「常楽寺」の参道が右手に伸びている。

 この御寺の「山門」の屋根は、「茅葺」で、なかなか情緒がある。参拝する人をときどき見かけるが、観光客は、まずいない。「北鎌倉」の県道21号線「小袋谷」の交差点から歩いてもあまり距離がないのだが。

 「常楽寺」は、鎌倉の北西を守護する位置にあって、鎌倉幕府第三代の執権「北条泰時」*(1)公と、「建長寺」開山「大覚禅師(蘭渓道隆)」ゆかりの古刹。開創は、嘉禎三年(1237年)12月13日で、『吾妻鏡』によると、泰時公が妻の母の追善供養のため、山ノ内(当時の山内荘)の墳墓のかたわらに一つの梵宇を建立し、退耕行勇が供養の導師をつとめたとある。

 静かな境内には、「本尊阿弥陀三尊像」が祀られている「仏殿」(神奈川県指定の重要文化財)がある。この「仏殿」は、元禄四年(1691年)5月に建立されたもので、方三間(約5m)という小さい御堂ながら、鎌倉の近世禅宗様仏殿の代表的な建物の一つである。「仏殿」の天井には、「狩野雪信」(女性)筆の『雲竜』が描かれている。「狩野雪信」筆の天井絵は鎌倉にはほかにないので、特筆されるべき作品である。なお、「狩野雪信」は、「紫式部像」も描いている。

 御本尊の「木造阿弥陀三尊像」は、室町時代の作で、「観世音菩薩像」、「勢至菩薩像」と共に、なかなか優しい御顔をされた「阿弥陀如来像」が祀られている。この「阿弥陀如来像」は、「北条泰時」公が殊の外帰依されたものと言われている。

 「北条泰時」公の墓は「仏殿」の背後にあり、かたわらには鎌倉時代の高僧「大応国師(南浦紹明)」の墓もある。「北条泰時」公は、鎌倉幕府第三代の名執権である。

 「仏殿」の左側に隣接する「文殊堂(秋虹殿)」には、「木造文殊菩薩坐像」(神奈川県指定の重要文化財)が祀られている。「文殊菩薩坐像」は、鎌倉時代の作で、1月25日の「文殊祭」以外は開扉されない「秘仏」である。

 「色天無熱池」は「仏殿」の右奥にある。色天は欲界のよごれを離れた清浄な世界という意味であり、無熱池とは、徳が最もすぐれているとされる阿耨達(あのくだ)龍王が住み、炎熱の苦しみのない池のことをいう。

 「姫宮塚」は、「粟船山」の中腹に、「木曽塚」は、山頂にそれぞれあり、前者は、「泰時公の女」の霊を祀っており、後者は、「木曾義仲」の子息である「木曽義高」を祀っている。今日は、それぞれの塚に御参りしてきた。

 「常楽寺」は、小さな御寺であるが観るべきものも多く、御庭も小奇麗で、私の好きな鎌倉の御寺の一つである。

大長寺

 今日もどこを散策しようか迷ったが、結局、JR「本郷台駅」で下車し、「鎌倉女子大学」前から「旧鎌倉街道」を通り「北鎌倉」を目指して歩くことにした。

 最初の目的地、岩瀬にある浄土宗亀鏡山護国院「大長寿寺」、通称「大長寺」を訪れた。この御寺は、「徳川家康」とも縁があり、鎌倉の御寺としては、「鎌倉幕府」と直接係わりが無いこともあってか、あまり観光客がいないので静かな雰囲気が漂っており、私の好きな御寺の一つでもある。

 「大長寺」は、もと京都「知恩院」末寺、開祖は、小田原北條氏(後北条)の「北条綱成」で、天文17年(1548年)5月の創建である。

 元の寺号「大頂寺」は、当寺の開基「北条綱成」の奥方(北条氏綱の娘)の戒名「大頂院殿」からきていたが、「徳川家康」公が「山号」が『亀鏡山』なら『大長寺』が似合う」といって寄進状に「大長寺」と書いたことから寺名が改まったと伝えられている。なお、「大頂院殿」のお墓は、本堂の裏山に続く境内にある「北条一族の墓」の中にある「自然石の墓標」のものであると伝えられている。先日、訪れた時に参拝してきた。

 銅葺き屋根の「三門」をくぐり、古びた「石段」を登ると、右手には、ちょっと一部が変色しているが、なかなか丹精な顔立ちの「観音菩薩」の石像がある。また、「石段」を登った左手には「宝蔵」がある。ここには、「徳川家康」公とその父「松平廣忠」の位牌が祀られているという。

 正面には、本尊「阿弥陀如来像」を安置する「本堂」が聳えている。「本堂」の後方一帯を取囲む山々には杉が鬱蒼と生い茂っている。今日は、「本堂」に上り、扉を開けて前回拝顔することができなかった「阿弥陀如来像」を参拝することができた。

 

2009年6月17日水曜日

浄光明寺、佐助稲荷

2009年6月13日(土)
浄光明寺
 鎌倉駅西口から「長勝寺」の門前を通り、JRの踏み切りを渡り、やがてT字路を右に折れてしばらく川添えの小道を歩くと左手に「浄光明寺」の案内板があり、その少し先に「山門」が見えてくる。

 泉谷山「浄光明寺」は、泉ケ谷(扇ケ谷)の谷間に位置する真言宗の御寺。本山は、皇室御菩提所として知られる京都東山「泉涌寺」。創建は、建長三年(1251)で開基は武蔵守「北条長時」(鎌倉幕府第六代執権)、開山は「真阿和尚」(勅謚真聖国師)である。

 「山門」を入ると、すぐ左手に「楊貴妃観音」の石像が祀られている。これは、本山の京都東山「泉涌寺」に祀られている「楊貴妃観音」像に係わりがあるらしい。

 境内には「客殿」、「庫裏」、「不動堂」などがある。「不動堂」の手前には、ピンク色に近い薄紫色の花を付けた「紫陽花」が咲いていた。また、数は少ないが、あざやかな紫色の花の「花菖蒲」が「不動堂」の手前の一角に、更に白い花の「花菖蒲」が「不動堂」の裏側の一角にそれぞれ咲いていた。

 「庫裏」の右脇の階段の昇り口には、「今日は、阿弥陀三尊が拝観できます」との案内札が立っていたので、早速、階段を昇り、階段を上りきったところにある小屋で拝観料を払う。最初に、「収蔵庫」に祀られている「阿弥陀三尊」に参拝する。最初の印象は、これまでに鎌倉の寺院で拝観したどの「阿弥陀三尊」ともかなり趣が異なっていることであった。

 「阿弥陀三尊」の中尊である「阿弥陀如来」坐像は、「宋風」の創りで、胸前に両手を挙げる「説法印(上品中生印)」を結んでいる。「説法印」を結んでいる「阿弥陀如来」の像は大変に珍しいという。また、「阿弥陀如来」坐像の指先は細長く、その指先には爪の造形が施されており、鎌倉時代における高位の生身の人間の体形を具現化している独特な坐像であるという。

 「阿弥陀如来」坐像は、「宝冠」を着けているが、これは、江戸時代末期に着けられたものらしく、青銅製である。本来の「阿弥陀如来」座像は、「宝冠」が載せられていなかったが、「宝冠」を装着させたままにしてあるとのこと。

 私が好きな「阿弥陀如来」坐像としては、京都・大原「三千院」の極楽往生院に祀られているものがあるが、「浄光明寺」の「阿弥陀如来」坐像は、その御顔が「三千院」のそれよりもすっきりした形をされているものの、その眼は、魚眼が入れられていて、かなりはっきりと開いた状態のものである。

 「阿弥陀如来」坐像の「肩」、「袖」、「脚部」などには、「土紋」と称される、浮き彫り状の装飾が施されているが、これは鎌倉地方の仏像に特有の技法で、土を型抜きして花などの文様を表したものを貼り付けたものである。また、「衣文」にも他の「阿弥陀如来」像にはあまり見受けられない特徴がある。

 「阿弥陀如来」坐像及び「観音菩薩・勢至菩薩」坐像は、三尊とも「蓮華座」の上に置かれて祀られている。特に「阿弥陀如来」坐像が祭られている「蓮華座」は、実に素晴らしい創りで、「蓮」の「華」が幾重にも立体的に彫られていて「鎌倉彫」の「原点」とも言われている。

 「観音菩薩・勢至菩薩」坐像は、結跏趺坐(座禅の形)ではなく足をくずして坐り、中尊「阿弥陀如来」坐像の方に頭部をわずかに傾けて作られている。「観音菩薩・勢至菩薩」坐像の写実的な「衣文」表現や、生身の人間のような「面相」表現は、「阿弥陀如来」坐像以上に顕著な「宋風」であるらしい。「観音菩薩・勢至菩薩」坐像は、私が今迄観た「観音菩薩・勢至菩薩」像の中ではかなり傑出した坐像である。

 「浄光明寺」の「阿弥陀三尊」は、「覚園寺」の「薬師如来坐像」と同様に、「鎌倉時代の代表的な仏像」と評されている。

 「収蔵庫」には、上述した「阿弥陀三尊像」以外にも、「足利尊氏」の弟である「足利直義」の「念持仏」と言われている「矢拾地蔵尊像」が祀られている。「矢拾地蔵尊像」は、「収蔵庫」に左側の側壁に祀られていて、像を正面から見ることができない。鎌倉の寺院には、「地蔵尊像」が多く祀られているように思う。また、右側の側壁には、「仏舎殿」のようなものが置かれていた。

 本来、重要文化財の本尊「阿弥陀如来」坐像及び両脇侍「観音菩薩(向かって右側)・勢至菩薩(向かって左側)」坐像は、二階堂に在った「永福寺」から移された「阿弥陀堂」に祀られていた。しかし、本尊及び両脇侍ともに木造で正安元年(1299年)の作(但し作者不詳)で、創られてから既に「710年」の歳月が経過しているので、保存のために湿気や温度を調整する必要があり、そのために「収蔵庫」に保存されるようになった。「収蔵庫」は、由緒ある仏像を祀る場所としてはちょっとそっけない造りなので、御堂らしい装飾をその内部に施して「阿弥陀三尊像」を祀って欲しいと思う。

 「永福寺」から移された由緒ある「阿弥陀堂」には、現在、新しい如来像が三体祀られている。「過去・現在・未来」をそれぞれ表す三世仏「阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来」の像である。歴史が浅いという点を除けば、仏像としては、それぞれがなかなか立派な創りである。北鎌倉の「浄智寺」の「曇華殿」(仏殿)には、同様に、その御本尊として三世仏「阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来」の像が祀られている。

 「観音堂」には、「千手観音像」が祀られているが、「不動堂」に祀られている「不動明王像」と同様、残念ながら一般公開されていない。

 「阿弥陀堂」のさらに裏手の狭い階段を上った先の山上には「やぐら」があり、内部に「石造地蔵菩薩坐像」(通称網引地蔵)が安置されている。

 その「やぐら」からさらに登ったところには国の史跡に指定されている「冷泉為相」(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓と言われている「宝筐印塔」がある。「藤原定家」の孫であり、「十六夜日記」の作者である「阿仏尼」の子息である、「冷泉為相」のお墓に御参りしたことは、大変感慨深いものがある。

 先日、「鎌倉文学館」で「阿仏尼」の「十六夜日記」のレプリカを見たが、その達筆な文字に魅了された。それ以来、「冷泉為相」に対しても興味を覚えた。

 「冷泉為相」のお墓がある場所からは、「泉ケ谷」の谷間が一望でき、飛んでいる「鳶」の姿をその上方から眺めることができる。

 「浄光明寺」を参拝して心が清められた後、直ぐに帰宅しようかと思ったが、まだ参拝したことがない「佐助稲荷神社」を訪れることにした。

 来た道を、「長勝寺」の門前を通り、「紀伊国屋鎌倉店」の角を右折して「鎌倉市役所前」に出たらそのまま直進し、「佐助トンネル」を通り抜け、「銭洗弁天・佐助稲荷」の案内板に沿って歩く。やがて、住宅街の中の道になる。

 静かな「佐助ヶ谷」に、初夏の訪れを告げる「時鳥」(ほととぎす)の鳴き声が木霊している。暫くその声に聞き惚れる。なんだか「鎌倉時代」にタイムスリップしたような感覚だ。

 「時鳥」の鳴き声は、自宅の近くや鎌倉の他の場所でも時々聞くことがあるが、あまり魅力的であるとは思えなかったので、今迄、和歌に頻繁に詠まれている程にはその鳴き声に感激することはなかった。

 しかし、「佐助ヶ谷」の「佐助稲荷」の谷間に木霊するその声を聞いたときに、「時鳥」の鳴き声の素晴らしさをやっと実感することができた。しばらく御社の近くの縁台に座りながら「時鳥」の鳴き声に聞き惚れてしまった。

 御社の近くには「やぐら」があり、そこには「湧き水」が湧いていた。その近くの岩壁には、可憐な「紫の花」が咲いていた。この可憐な花が「イワタバコ」であることを帰宅してから知った。「佐助稲荷」は、「イワタバコ」の隠れた名所でもあるらしい。

 御社の裏山の斜面には、紫色の「紫陽花」の花が咲いていて、とても綺麗である。どうやら「佐助稲荷」は、隠れた花の名所であるようだ。

  山路より出でてや来つる里ちかきつるが岡辺に鳴くほととぎす
冷泉為相
(藤谷和歌集)

2009年6月11日木曜日

長寿禅寺(長寿寺)

 ちょうど通りを歩いているときに、拝観することができないと思っていた「長寿寺」が一般に開放されている「特別拝観」の期間中であることを知り、急遽、予定を変更して入山させて頂くことにした。

 宝亀山「長寿禅寺」は、関東管領であった「足利基氏」により、父改築「足利尊氏」の菩提を弔う為にその邸跡に延文3年(1358年)に建長寺派寺院として創建された。なお、「足利基氏」(幼名「亀若丸」)は、「足利尊氏」の第四子である。

 一般公開された「長寿寺」は、「本堂」や「書院」、等、主だった建物が改築されていて、私は、大いに気に入った。日本の御寺は、歴史を重んじるばかりに、なかなか「本堂」、等を改築したりすることができないのだが、この御寺はちがっていた。

 「本堂」に祀られている御本尊の「釈迦如来像」も新しい像のようだが、凛としていて素晴らしい創りである。

 特筆すべきは、やはり「書院」及び「小方丈」に上がって眺める「御庭」であろう。鎌倉の御寺では、「書院」から「御庭」をゆっくりと眺めることは、なかなか体験できないので、本当に素晴らしいことである。

 昨日、鎌倉の「大仏茶廊」の御庭で観た「つつじ」と同じ種類のものが綺麗に咲いていて、しばし佇んで眺めている。どうやら、この「つつじ」が大好きになってしまったようだ。

 「御庭」を眺めていると、直ぐ近くの県道を通る車の騒音を忘れ、ゆったりとした時の流れの中で、「仏」(自然)との「対話」が行なわれているような心境になる。それは、ちょうど「京都」や「奈良」の御寺で御庭を拝見しているときの雰囲気に似ている。

 また「書院」や「小方丈」の建物は、厳選された木材、等を使用して一部が改築されたものなので、新旧の和合がうまく調和していて、御寺が開山された当時の雰囲気を十分に味わうことができる。

 今日は、「書院」で「原山五葉個展」が開かれていて、いろいろな作品を見ることができた。彼女の書の作品は、なかなか素敵だ。その中でも気に入ったものとしては「西行法師」の和歌を記したものや、源氏物語の「桐壺」の絵、等である。御寺の中でこのような個展が開かれるのは、心が和み、なかなか感じがよいものである。

 御朱印を戴き、御住職の奥様と暫く話をした後、「本堂」を出て、拝観順路に従って「観音堂」へ向かう。

 「観音堂」は、もと奈良県の古刹忍辱山「園成寺」に在った「多宝塔」を改造移築したもので、その中には、「桐の一本彫」で造られた凛とした「聖観世音菩薩像」が祀られている。なかなか素晴らしい「聖観世音菩薩像」である。
 
奈良県の古刹忍辱山「園成寺」は、帰国後に「奈良」を旅したときに訪れた御寺の一つで、当時はまだ庭園が復元中で、重要文化財であった運慶の作であると伝えられていた「大日如来像」(現・国宝)を本堂の中で間近に観ることができたのが大変印象に残っている。これも何かの御縁であろうか。また、「聖観世音菩薩像」の背後の絵は、「迦陵頻伽(がりょうびんが)」の鳥が描かれている。

 「観音堂」裏の「やぐら」には、「足利尊氏」のお墓がある。御参りする。

その後、拝観順路に従って進むと「竹林」の木立の中に、「シャガ(著莪・射干)」(学名:Iris japonica・別名:コチョウカ(胡蝶花))の綺麗に花がたくさん咲いていて、自然と微笑んでしまった。春の訪れを感じるひと時である。

そして、程なく、先程の「庭園」及びその「裏庭」を眺めることができる。これは、最も素晴らしい景観だ。「書院」及び「小方丈」を含めたその眺めは、いつまで観ていても飽きることがない。

 「長寿寺」は、「北鎌倉」でも私のお気に入りの御寺:「円覚寺」、「東慶寺」、「明月院」の仲間の一つになってしまった。いろいろな季節を通して、度々訪れたいと思う。

東慶寺 早春の思い出


心よりやがてこころに伝ふれば
さく花となり鳴く鳥となる
      釈 宗演

 どいう訳か門前を通るといつも惹きつけられて自然と入山してしまう御寺の一つに「北鎌倉」の「東慶寺」がある。しかし、今日は、初めから訪れる予定だった。先月に続いての参拝である。

 今日の目的は、先に「東慶寺」のHPで調べておいた「仏像特別展」(3月7日(土)~5月10日(日)まで開催)を「東慶寺・松ヶ岡宝蔵」で見ることである。実は、前回訪れた際に、茶室で別の客が「《観音像》を見たいのだが、どこで見ることができるのか」と係りの人に尋ねていたところ、「予約をしないと見られないかもしれません」と言われていたことが気になり帰宅して調べたところ、その《観音像》とは、《水月観音菩薩半跏像》のことだということが判った。そのうち、「東慶寺」のHPで3月7日(土)から「仏像特別展」が開催されることを知り、「仏像特別展」で《水月観音菩薩半跏像》を拝観できるようなので、今日の参拝を計画したのである。

 展示会場である「松ヶ岡宝蔵」は、9時半に開場なので、ちょっと間があり、少し境内を散策することにした。

 御寺の奥にある開祖「覚山尼」(北条時宗の正室 父:安達義景、母:北条政子の弟・時房の娘)の墓所、後醍醐天皇の皇女「用堂尼」(5世)の墓所、豊臣秀頼の娘「天秀尼」(20世)の墓所、等に御参りするが、9時少し過ぎの早朝は、まだ観光客がいないので、静寂な境内をゆっくりと散策することができた。

 境内には、「みつまた」の黄色と赤の二種類の綺麗な花が咲いている。「松ヶ岡宝蔵」の入口近くには、綺麗な水仙が咲いていた。

 「松ヶ岡宝蔵」に入館する。入館料を払い、御朱印の記帳を依頼して入る。まだ誰も入館していないので、私一人が独占して仏像、等をゆっくりと拝観することができる。

 まず、入ってすぐのところに「木造 聖観音菩薩立像」祀られている。

 もと鎌倉尼五山の筆頭「太平(尼)寺」の本尊である。その凛とした御姿は、なかなか魅力的で、尼寺の御本尊らしく柔和な尊貌をされておられる。ゆっくりと参拝させて戴いた。

 展示場となっている二階に上がると、一目でそれと判る魅惑的な観音像「水月観音菩薩半跏像」が展示されていた。通常は、「水月堂」に祀られていて、拝観には電話かハガキでの予約が必要(特別拝観料300円)であるが、今回は、「松ヶ岡宝蔵」で拝観することができた。

 白衣をまとい岩座の上にゆるやかに、やや斜めに腰をかけ、水に映る月を眺めるので、水月観音と呼ばれる。右足を半跏にし、左足を垂下し右手に未敷の蓮華を持つ。衣文の複雑なひだの表現もたくみで、衣につつまれた膝の丸みの刻出も自然で、我々の苦悩のすべてを包み込んでくださるような柔和で慈悲深い尊貌をされておられる。

 鎌倉で美男の代表は「長谷の大佛様」、美女の代表は小さいけれど「松ヶ岡東慶寺の水月観音様」と言われているようである。

 小粒ながらなかなか魅力的な半跏像である。ケースの中に保護されているので、かえって安心して近づいて御顔や御姿をよく観察することができる。久し振りに魅せられた仏像だ。

 次に、「阿弥陀如来立像」がある。この「阿弥陀如来立像」は、両蓮華座に両足で立つ尼僧好みの弥陀の尊像であり、豊臣秀頼の娘「天秀尼」(20世)の念持仏であったが、堀主水の元・妻であった「寿林尼」に「天秀尼」が与えたものである。

 更に、「地蔵菩薩像」もなかなか印象的である。今迄、地蔵尊には魅力を感じたことはないが、ここの地蔵尊はちょっと赴きが異なり、しばし佇んで眺めてしまった。

 それ以外にも、興味を覚えた仏像が何体かあった。

 特に魅力を感じたのは、高村光雲・作の「聖観世音菩薩立像」である。

 また、「蒔絵」が施され数々の物品や、「釈宗演」に関する資料、等、小規模ながら、「東慶寺」の貴重な寺宝が展示されており、時間を忘れてしまう程であった。

 「松ヶ岡宝蔵」での拝観を終えて山門を出るときに、山門の左手前の「彼岸桜」が綺麗な花を咲かせており、いよいよ春の訪れを告げていた。

2009年6月9日火曜日

東勝寺跡と宝戒寺

 京急「新逗子駅」から歩き始める。「小坪」を経由して、「材木座海岸」を通り「光明寺」の本尊「阿弥陀如来像」を参拝し、本日の目的である「祇園山ハイキングコース」を通り、「東勝寺址」、「東勝寺橋」を巡る散策である。

 「鶴岡八幡宮」が建立される前に信仰されていた「元八幡神社」を参拝する。この「元八幡神社」の周辺に「芥川龍之介」が新婚時代に住んでいたという。そして、「元八幡神社」からJR横須賀線の踏切を渡ってすぐの「薬師堂」に御参りして、「大町交差点」を通り過ぎ、「八雲神社」の境内へ向かう。

 「八雲神社」の境内裏から急坂を登って行くと雨上がりの山道は、やはりかなりぬかるでいた。また、二日前まで降っていた雨のためか湧水が出ているところもかなりある。暫く登ると、やがて「展望台」及び「高時切腹やぐら」の分岐点に到着する。約50メート右手に進むと、「展望台」があり、「材木座」から「由比ガ浜」を含む海岸が眺められる。再び分岐点に戻り、「高時切腹やぐら」を目指す。

今日は、真夏日でかなり暑いはずであるが、「祇園山ハイキングコース」は、新緑に覆われていて、心地よい風が時折通り過ぎてゆくので、歩いていると汗は多少出てくるが、暑さをあまり感じない。「祇園山ハイキングコース」は、「天園ハイキングコース」と比べると距離は短いけれども起伏があり、よい運動になった。

 やがて「高時切腹やぐら」に到着。実質的に鎌倉幕府を確立した「北条一族」の歴史がここで途絶えた場所である。ところどころに見られる大木の杉がその歴史を見つめていたのだろうと思うと、感慨深いものがある。

 近くには、「東勝寺址」がフェンスに囲まれて保存されている。後方には、いくつかの「やぐら」が見られる。

 「東勝寺」は、鎌倉幕府三代執権「北条泰時」が創建した臨済宗の禅寺(北条氏の菩提寺)であった。元弘3年、新田義貞らの鎌倉攻めの時、十四代執権「北条高時」ら一族郎党がここに立てこもり、寺に火を放ち、自刃して最期を遂げた。寺はその後直ちに再興され、室町時代には、関東十刹の第三位に列するも、戦国時代には廃絶したとされる。

 やがて「滑川」が流れる「東勝寺橋」にさしかかる。この「東勝寺橋」は、青砥藤綱の「銭さらい」の物語の舞台となった場所でもある。この物語とは、「青砥藤綱は、北条時宗、北条貞時の時代に、裁判官をしておりました。ある夜のこと、失敗してお金十文を滑川に落したので、松明を五十文で買って、水の中を照らさしてお金をさがし、とうとうそのお金をさがしだしました。そのことを人々は、得たものよりも失ったものの方が大きい、大損だ、と笑いました。しかし藤綱は、十文は小さいが、これを無くすことは、天下のお金を無くすことである。私は、五十文を無くしたが、これは人々の為になったのである、と諭しました。」というもの。この物語の舞台となったところが、ちょうどこの「東勝寺橋」のあたりである。

 「東勝寺橋」周辺の河岸は、よく整備されていて、「新緑」がその下を流れる「滑川」の川面を覆うように広がっており、初夏のような陽射しのためにその緑が眩いばかりに輝いている。近くには、小さな公園もあり、緑の木陰と「滑川」の清流の元で、孫を連れたおじいちゃんが、楽しそうに遊んでいた。

 今日の散策の目的は、これで遂行できたので、帰宅しようと思ったが、目にとまった案内板に沿って史跡「紅葉山やぐら」の方に歩いてみることにした。それは、ちょうど「宝戒寺」の裏を通る路である。その路を歩いている途中で、御寺の紋が「北条の家紋」の「三鱗」(みつうろこ)であることが気になり、「紅葉山やぐら」を見た後、「宝戒寺」を参拝することにした。

 「紅葉山やぐら」は、崩壊後に見付けられたところらしく、「やぐら」の様子を窺うこともできないような状態で整備されていて、扉まで付けられてしまっていた。

 「紅葉山やぐら」から戻り、脇道を出て「小町大路」を右に曲がって整えられた敷石が綺麗な参道の「宝戒寺」に入る(参拝料100円:本堂参拝券付き)。

 「宝戒寺」は、正式寺名を「金竜山釈満院円頓宝戒寺」と言い、鎌倉二十四地蔵第1番、鎌倉三十三観音第2番であり、9月頃に咲く白い花「萩」が有名である。

 歴史的には、1333年に「新田義貞」に攻められて「鎌倉幕府」(執権:北条高時の時)が滅亡するまで「北条宗家(得宗家)」の屋敷が有ったところである。その地に「後醍醐天皇」の命令で「足利尊氏」が北条一族の怨霊をしずめるために開いた御寺が「宝戒寺」である。建武2年(1335年)に「天台宗」五代座主の「慈威和尚」が開山を勤めた。

 境内に入り、いろいろな建物が目に付いたが、まず本堂に上ることにした。

 本堂の「本尊地蔵菩薩坐像」(国重文)は、胎内銘から1365(貞治4)年「三条法印憲円」の作であることがわかったもので、地蔵像としては珍しい座像で、「子育経読地蔵」とも呼ばれている。同じ堂内に安置されるもう一つの小さな「地蔵菩薩像」は、「足利尊氏」の「念持仏」と伝えられている。

 また、本堂には、鎌倉33観音第2番札所として、札所本尊の「准胝観音(じゅんていかんのん)像」が「地蔵菩薩像」の向かって左側に祀られている。この「准胝観音像」は、あまり日本では信仰されていない珍しい像である。

 京都・「醍醐寺」の「准胝観音像」がよく知られていたが、残念ながら2008年に落第による火災で上醍醐「准胝堂」とともにその本尊が消失してしまった。今度「宝戒寺」を訪れるときには、御朱印帖を持参して御朱印を頂戴しようと思う。

 本堂を出ると、その右脇には「徳宗大権現堂」があり、最後の第14代執権「北条高時」を祀っており、その内部には「北条高時の木造」が安置されている。

 また、本堂の右手奥には、「歓喜天堂」がある。その御堂には、日本最古の木造聖天像で、秘仏の「歓喜天像」(国重文・非公開)が祀られている。 「宝戒寺」を参拝した後、帰宅。

鎌倉大谷美術館


 鎌倉市佐助にある《鎌倉大谷記念美術館》(住所:神奈川県鎌倉市佐助、館長:大谷正子)を訪れた。

 ここは、「ホテルニューオータニ」の前会長、そして「ニューオータニ美術館」の前館長であった「大谷米一」氏の元鎌倉別邸を改装した美術館である。

 大きな美術館以外のところで、絵画、彫刻、ガラス工芸品、等の美術品を間近に鑑賞するのは、実に久し振りである。

 《鎌倉大谷記念美術館》の門を入り、緩やかに左にカーブする上り坂を歩いて行くとやがて美術館の入口に到着する。

 アーチ形の入口の階段を上ると正面に加藤唐九郎の陶板の大作「白雲青松」(白い上の部分が雲、下の青緑部分が松)が飾られている。玄関のドアを開けて館内に入る。雰囲気的には個人の洋風邸宅に御邪魔するような感覚である。

 邸内の入ると直ぐ左手に受付がある。大変に知的で品格がある女性が受付をされていた。入館料を払うと、「靴をお脱ぎにならず、そのままでお上がり下さい」と言われたので、靴を履いたまま邸内に入る。

 玄関は、一階から二階まで吹き抜けになっていて、大変に明るい感じがした。入って直ぐのところに、「ピエール・ボナール」による「公園の中の子供達」の大きな縦長の絵が飾られていた。また、吹き抜けのところの壁には色彩豊かな「ステンドグラス」の窓が造られている。

 また入口からちょっと上がったところに、素敵な構成の「サンルーム」があり、広々とした窓からは、鎌倉の市街地を眺めることができる。

 「サンルーム」には、アントワーヌ・ブールデルによるブロンズ像「暁の乙女」及び「ペネロペ」の2点の彫刻と、ローマ時代の彫刻の1点が展示されている。そして「サンルーム」の窓越しに眺める御庭もなかなか綺麗だ。「いい創りの御宅だなぁ」とつくづく思う。

 《鎌倉大谷記念美術館》を訪れたときには、『花とエコール・ド・パリの美女達』—ローランサンを中心に—という特別展(2009年4月7日(火)から6月27日(土)まで)が開催されていて、「エコール・ド・パリの画家」の代表的な画家である「マリー・ローランサン」の作品を中心に、「キスリング」、「モジリアーニ」、「ドンゲン」の作品が展示されていた。

 どれも素晴らしかったが、マリー・ローランサンの代表作「少女と小鳥」が大変に魅力的であった。
 また、今回初公開されたローランサンによるルイス・キャロル著『不思議の国のアリス』の挿絵本(リトグラフ)も大変に可愛いらしいアリスが描かれたものだ。

 独自の神秘的な雰囲気の中にも明るい色彩で可憐な春の花を描いたルドンの「花瓶の花」は、見れば見るほど魅了されてしまう絵である。一見、写実的な絵であるが、近づいて見ると、繊細なタッチで実によくそれぞれの花が描かれている。

 ルドンの作品とは対象的に、その繊細な美しさの中にも油絵の力強さが溢れているキスリングの「花」は、ルドンの作品以上に私を魅了してしまった。なかなかこの絵から離れることができなかった程である。

 そして更に、一度ぜひ観てみたいと思っていたのレオナール・フジタ(Leonard FOUJITA(藤田嗣治))の作品の一つである「婦人像」が展示されていた。

 工芸は、「ジャポニスムの先導者」と言われ、アール・ヌーヴォーの中心的役割を果たした「エミール・ガレ」の作品で、涼やかな草花模様に流水を配した「エナメルガラス花器」と「プラム文様花器」が展示されている。どちらもなかなか素敵なガラスの工芸作品である。
7月に展示品が模様替えされたときにまた訪れてみようと思う。鎌倉散策での楽しい立ち寄り場所の一つになった。

2009年6月8日月曜日

美鈴と報国寺


6月に入り夏のような陽射。やはり今日も「鎌倉」へ来てしまった。自宅から少し電車に乗り、散策するには「鎌倉」が一番好き場所である。

 当初「浄光明寺」を訪れてみようと思っていたが、電車の中で、「美鈴」の月替りの生菓子を思い出し、早速「鎌倉駅」東口で降りて「美鈴」に立ち寄ることにした。

 今月の生菓子は「青梅」。「青梅」は、自家製の梅干しを青梅色の餡に練り込み、梅の形に仕上げたもの。お茶用の生菓子なのでやはり甘いが、口の中に入れるとほのかに「梅の香」を感じてなかなか美味しい。「美鈴」で会員制のことについて聞いたら、送料がかかるので、「午前中ならばだいたい購入できますが、前日に予約をして頂ければ、このように取り置きしておきますから確実ですよ」と、後ろに置かれている箱を示しながら、女将さんが言われたのを聴いて少し安心した。

 「青梅」をリュックの中に入れてから、「宝戒寺」の門前を通り、「竹の庭」がある「報国寺」に行ってみようと思い立つ。「大御堂橋」を渡り、「田楽辻子の道」を通って行くと、やがて「報国寺」に着くが、その手前で「紫陽花」が綺麗なピンクや紫、青、白、等の色とりどりの「花」を咲かせている。

 今日は、「報国寺」でゆっくり過ごすことにする。

 「山門」を潜り、すぐ右手の階段を上がって行くと、「本堂」に到着する。「竹の庭」への入口には「写経ができます」との案内があった。調べてみたら、毎月第一日曜日だけ「写経会」があるようだ。一定の時間帯の間だけ受付けているようである。

 「御朱印」をお願いして、「竹の庭」に入る。「竹の庭」を眺めながら御抹茶を楽しんでいると、何か小さな竹の枯れ皮のようなものが空から沢山降ってきた。「竹の妖精」と私はそれを命名した

 御抹茶を味わった後、更に御庭を散策する。「やぐら」の回りには、「紫陽花」の紫や水色の花が綺麗に咲いていた。 「枯山水の御庭」が眺められる境内の一室では、「写経」が行われていた。何人かの御夫人が参加されている様子。本当は、「写経」を行った後に、「御朱印」を頂くべきなのであるが。今度訪れたときには、「枯山水の御庭」を見ながらゆっくりと「写経」を行ってみようと思っている。

 「鐘楼」の近くに、沢山の「供養塔」があるがそこには、「歌碑」があった。よく読めなかったが、帰宅して調べたところ、「供養塔」は、「由比ガ浜」で亡くなった新田軍及び北条軍の戦死者を追悼するもので、「歌碑」は、その追悼歌の歌碑であった。「山門」の手前には、微笑ましい石像の「お地蔵さま」が祀られており、その近くには「紫陽花」の花が綺麗に咲いていた。

 今日は、「報国寺」を訪れたら、それ以外のところへ行く気にならず、「鎌倉」を後にした。

睡蓮


 初夏から夏の間に花が咲く「花菖蒲」と「あやめ」或いは「かきつばた」は、大変に見分け難いが、それはさておいて、《睡蓮》(water liliy)と「蓮」も同様になかなか見分け難い花である。

 先日、「大船のフラワーセンター」に行ったときに、まず外にある「睡蓮池」に日本の「睡蓮」の「花」が咲いていて「ほぉ、《睡蓮》の花ってこんなに綺麗だったのか」と、その美しさに感動したものである。

 そして、「大船のフラワーセンター」内の「温室」に入ると、外国産の《睡蓮》が何種類かあり、あざやかな黄色、紫、水色、等、いずれも綺麗な花を咲かせていた。中には、眠っている《睡蓮》が2種類程あったが夜に花が咲く種類であるらしい。

 特に注目したのは、外国産の熱帯《睡蓮》の花が大変に美しかったことである。そこで、外国産の熱帯《睡蓮》に格別の興味を抱くようになった。どうやら一瞬にして《水の妖精》の虜になってしまったようだ。

 その中でも、たった一つだけ、綺麗な青色の花の熱帯《睡蓮》の名前を記憶している。それは、《ペンシルベニア》(Pennsylvania)別名[ブルービューティ]と呼ばれているもので、熱帯《睡蓮》の代表的な品種の一つであるらしい。この美しさは、カメラでは表現できないだろうなぁと思った。

 また、薄黄色の花が大変に綺麗な《セントルイス・ゴールド》(St.Louis Gold)という熱帯《睡蓮》も印象的であった。

 余談だが、「エジプト」では、熱帯《睡蓮》は、《ナイルの花嫁》と言われていて、国花にもなっている。

2009年6月4日木曜日

明月院 姫紫陽花


2009年5月30日(土)
 朝から曇り時々雨の天気だ。まだ花の盛りには時期がちょっと早いように思えたが、今日は、《明月院》の《姫紫陽花》を観に行くことにする。

 「北鎌倉駅」で下車して歩き始めるが、《明月院》の入口付近には既に警備員が二人待機している。どうやら今日あたりの週末から混雑するようだ。

 「山門」へ向かう階段の両脇には、紫色の《姫紫陽花》が所々で綺麗に咲いている。予想していたよりもまだ人の出が少なかったのは幸いだ。ゆっくりと《姫紫陽花》を観賞することができる。

 まだ大半の紫陽花が満開とは言えない状態であるが、その中でも既に咲いている《姫紫陽花》は、小雨に濡れて花の色がいっそう鮮やかに観えて実に綺麗である。

 今日は、待望の《本堂後庭園》を観賞できるので、《本堂》の御本尊《聖観世音菩薩》を御参りした後、早速入園させて戴く。

 《本堂後庭園》の側から《方丈》の「丸窓」を通してみる「枯山水の庭」も《さつき》の桃色の花が盛りでなかなか情緒があって綺麗だ。

 鮮やかな濃い紫色の《花菖蒲》が咲き誇る《本堂後庭園》がある「明月谷」には、「不如帰」の鳴く声と「鶯」の鳴く声が木霊している。まるで深山に入ったような雰囲気だ。その《本堂後庭園》の一角には、数は少ないが美しく林立している杉木立があり、その根元に苔が生えて、山の上から清流が流れて何段かの「滝」を形成している場所がある。近くには、優しい御顔の「御地蔵様」が祀られている。ここが御寺の一部であることを思い出させてくれる。《本堂後庭園》を二度巡って退園することにした。

 《本堂後庭園》を参拝した後、境内にある《月笑亭》で抹茶を頂くことにした。まだ色付いていない《姫紫陽花》が「やぐら」周辺のような「境内」のいたるところに多く見られた。これらの《姫紫陽花》が一斉に色付いたらさぞ綺麗だろうなと思われる。

 《月笑亭》へ向かう途中で、散策されている人がちょうどその近くにいた庭師の人に「この花は何ですか?」と尋ねているのが聞こえた。その答えは、《夏ロウバイ》であったが、どこに咲いているものやら。
《姫紫陽花》ばかりを鑑賞していたので《夏ロウバイ》の場所を確かめなかったが、帰宅してから《夏ロウバイ》が可憐な花を咲かせているということを知り、ちょっと残念なことをしてしまった。

 《月笑亭》入口の付近には、他の種類の紫陽花も咲いているが、さすがに《姫紫陽花》の数と比べればかなり少ない数なのであまり目立たないが、これらの紫陽花もなかなか綺麗な花を咲かせている。

 《明月院》は、「北鎌倉」で私が好きな御寺の一つである。四季それぞれに訪れてみると、いろいろな花や景色にその都度出会えるので、本当にその素晴らしさを味わうことができる。6月上旬にもう一度訪れてみようと思う。