2012年12月29日土曜日

クリスマスプレゼント2012

 平成242012)年12XX日には、恒例となった、児童養護施設で暮らす子どもたちに《クリスマスプレゼントを贈る会》に参加してきた。2003年から参加しているので、今年でちょうど10回目になる。

 節目となる10年目の今年は、「」が「最初にサンタ」になったときの「Yちゃん」という女の子のサンタに再びなった。

 「Yちゃん」は、施設に来てからもう十年を過ぎたとのことだが、「彼女」の「最初のサンタ」になったのも私だったことを、後日知った。

 今回、10年ぶりに「Yちゃん」の二度目のサンタになって、彼女の「素直」で「優しい」性格を感じることができた。

 たった2時間程度の《》では、プレゼントをあげた「子供」と互いに親しみを覚えた頃に、「会」がお開きになってしまうので、いつも残念に思う。そういう意味では、何度か続けて「同じ子供」のサンタになって、「その子供」と「心の交流」を、少しでも深めたいと考えている。年に一度会うだけだから、「心の交流」ができるようになるには、なかなか難しいけれども。

 今回、「Yちゃん」が希望したプレゼントは、「携帯型ミュージックプレイヤー」だったが、予算額よりも安く品物を入手することができたので、余った予算で、彼女に「ポンチョ」や「膝掛け」としても利用できるものを追加して一緒に贈ることにした。

  「Yちゃん」は、自分が希望したプレゼントも、勿論、喜んでくれたが、それ以上にこの「ポンチョ」が気に入ったらしく、《》の間中、ずっと身に着けていた。彼女のそんな姿を見て、本当に嬉しい気持ちになった。



 施設を訪れるときは、例年天気がよいのだが、今年は、生憎の雨模様でした(記憶では、一度だけ雪が舞ったような寒い日があった)。しかし、施設の建物の中に入ったら、出迎えてくれる子供達の笑顔と明るい声で、まるで「太陽」が輝いているような雰囲気が漂っていて、駅から歩いてきて雨に濡れた身体が、心と共に温かくなった。

 帰り際には、「Yちゃん」から施設のみんなによるお手製の「絵葉書」をお土産にもらった。雨も激しく降っていたので、歩くのを中止して、施設の車で他の参加者と一緒に駅まで送ってもらった。

  今回、駅まで送ってくれた施設の人は、今年の4月から施設で働き出した若い男性職員で、この施設で働くことを、中学2年のときに「心に決めた」という。そのきっかけは、同級生の友達の中にこの施設の子がいたからだという。その後、高校、大学へ進学し、そして大学卒業後に「初心貫徹」。もっと、彼からいろいろな話を聴いてみたかった。

2012年12月26日水曜日

ブラフ18号館クリスマスデコレーション2012年


20121224(祝日)

今年も恒例の横浜・山手「洋館」に「クリスマス・デコレーション」を見学に行ってきた。今回は、暦の関係で「振替休日」となった「クリスマス・イヴ」に行くことができ、大勢の人が「洋館」の「クリスマス・デコレーション」を見物に来ていた。最初に立寄ったのは、例年通り「ブラフ18番館」で、ここで見たテーブルセッティングが大いに気に入った。

テーマ; 今、輝き放つ「ノスタルジック」なクリスマス

ヨーロッパの東西南北を結ぶ接点である「オーストリア」、全ての道は「ウイーン」に通じ多彩な文化・芸術が発展しました。今年は、芸術家「グスタフ・クリムト」の生誕150周年の年。芸術と伝統文化を育んだ国の最も幸せで大切なクリスマスシーンを演出します

 ブラフ18番館」のテーマ国は、「オーストリア」である。オーストリアは、私がヨーロッパの国の中でも、イギリスイタリードイツ、及びフランスと並んで一度は、訪れてみたいと思っている国である。それは、首都「ウィーン」に代表される、「音楽」と「芸術」の都であるといこと、そして学生時代から私の大好きな「ウィンナー・コーヒー(注1)発祥の地でもあるからだ。

 今回の展示では、「オーストリア最後の王妃:エリザベート」の「クリスマス・ウェディング」をメインテーマとして、テーブルセッティングがデコレートされていて、綺麗な「青紫色」の「薔薇」や「カーネーション」がモチーフとなっていた。食器は、ヘレンド製の『ウィーンの薔薇』、シャンパーニュ用等の各グラスは、ロブマイヤー製の『ベルヴェデーレ』で統一されていた。

薔薇」は、ギリシャ神話の昔からのシンボルとして多くの詩人や音楽家に賛美され、画家は貴婦人を描くとき、そのかたわらにそっと「薔薇」を添えるのが慣わしであった。
13世紀から700年にわたってヨーロッパ全域に権勢を振るったハプスブルク家でも、代々「薔薇」のモチーフに特別な愛着を寄せ、「薔薇」が描かれたディナーセットを使ってきた。

1864年、皇帝御用達の旧「ヴィエナ」窯が閉鎖されたとき、皇帝フランツ・ヨーゼフは、「ヘレンド」窯をその後継として指名し、1918年同家が帝位を去るときまで、ヘレンドは、『ウィーンの薔薇』などハプスブルク家ゆかりの器を数多く納めていた。
ウィーンの薔薇』は、とりわけ同家の自家遣いとして大切にされ、1918年まで一般の人々の目に触れることのなかったパターンであった。パターン名を直訳すると"ハプスブルク由来の薔薇"

そして、その類まれな美貌で"ババリアの薔薇"と呼ばれたハプスブルク家最後の皇后「エリザベート」は、ハンガリーをこよなく愛し、よくブダペスト郊外の「ゲデレ城」に滞在し、大好きな乗馬を楽しんだ。遠乗りから城に戻り、エリザベートが喉の渇きを癒すために手にしたのがこの『ウィーンの薔薇』であった。

2012年12月13日木曜日


 平成24617()iPSの研究で世界的に有名な京都大学の山中伸弥教授と世界で最初にクローンの羊を誕生させた英国エジンバラ大学のイアン・ウィルマット教授の講演会があり、日本科学未来館に聴きに行ってきた。

 

ISSCR2012パブリックシンポジウム iPS 細胞と私たちの未来

日時: 2012617() 16:0018:00

場所:日本科学未来館1階 シンボルゾーン

山中伸弥教授 京都大学 iPS細胞研究所

2012年ノーベル生理・医学賞授賞)

        後日(108日(月))に「ノーベル生理・医学賞」が発表され、山中教授が授賞された。この講演は、私がこれまで聴いたノーベル賞授賞者の講演の中で、ノーベル賞授賞が発表される前に(即ち、それに先駆けて)聴いた、初めての講演となった。

         「基本的な知識さえあれば、技術的には誰でも iPS 細胞を作ることができる」(山中伸弥氏の言葉)。もしiPS細胞を、あなた自身の手で作り出すことができたら?

        本イベントでは、iPS細胞を道具として手に入れた私たちの可能性がどこまで広がるかをテーマに、SF作品で描かれた様々な生命のあり方を紹介しながらともに考えます。
        国際幹細胞学会との協力の元開催される当イベントでは、第一線で世界的に活躍しているゲストをお招きします。クローン羊「ドリー(Dolly)」の生みの親、イアン・ウィルマット氏と、iPS細胞を開発した山中伸弥氏です。

 壇上に立った山中教授が話し出したことは、クローン羊「ドリー」の名前の由来について、である。「ドリー」という名前は、乳腺細胞由来にちなんで、飼育係が「巨乳」の持ち主として知られている歌手で女優の「ドリー・パートン(Dolly Parton)」の「巨乳」を称えて提案したものである」という。これまでに、いろいろな科学者の講演を聴いたが、「山中教授は、ちょっと異質な人だなぁ」、と直感した。その後、TVや新聞等の報道を通じて、山中教授は、ユーモアのある人であることが分った。

 講演内容の概略は、以下のような内容であった:

1) ミシンの部品を作る小さな町工場を経営していた父を尊敬していた。58歳の若さで亡くなったが、「経営者でもあったが、最後まで技術者だった。それを見て育ったので研究者より技術者というマインドの方が強い」

2)神戸大医学部を卒業後、整形外科医を志したが、医者としては、あまり適していないことが分り、基礎医学の研究に転身。

3)1993年、米国に渡り、本格的な研究者人生をスタート。一生肝に銘ずる言葉と出会う。「Vision(ビジョン)& Hard Work(ハードワーク)」(advised from Gladstone Institute’s President, Dr. Robert Mahley)。

41999年に奈良先端科学技術大学院大に助教授として採用され、初めて研究室を率いた。そのときに、「学生が来てくれないと大変なので、これはもう、だますしかないなと。夢のあるテーマをあげたらだまされて来るんじゃないか」ということで、「iPS細胞」を研究テーマにした。

5) ES細胞で特異的に発現し、分化万能性の維持に重要と考えられる因子を中心に、24個の候補遺伝子を選んで実験を行ったが、どの遺伝子も単独ではG418耐性を誘導できなかったので、24個すべての遺伝子を導入したところ、G418耐性の細胞からなる「コロニー」を複数形成することに成功した。この細胞を分離培養するとES細胞に酷似した形態を示し、長期に継代可能であった。このES様細胞株を「iPS細胞」と命名し、24遺伝子の絞り込みを行い、最終的に4遺伝子Oct3/4,  Sox2, Klf4, c-Myc山中因子 (Yamanaka factors))でiPS細胞を作ることができるということを発見した。

6) 「この技術を待っている患者さんと我々では1日の持つ意味が違うということを毎日私自身にも、研究員にも言い聞かせている」。

 

山中教授に関する参考文献:

 山中伸弥・益川敏英・『「大発見」の思考法―iPS細胞vs.素粒子』(文春新書)


iPS細胞に関する参考文献:

  『iPS細胞がわかる本 [単行本(ソフトカバー)]


              須田 年生 , 京都大学iPS細胞研究所(CiRA

2012年11月24日土曜日

Violin Concert 1


日時:平成24115日(月) 19:00

場所:サントリー・ホール

≪曲目≫:
J. S. バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 BWV1003
グバイドゥーリナ:リジョイス(喜び)! -ヴァイオリンとチェロのための
  -- (休憩)--


イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第5番 ト長調op. 27-5
バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ Sz117

≪アンコール≫
・シルヴェストロフ:セレナーデ

・ロックバーグ:カプリース変奏曲

 
演奏
ヴァイオリン:ギドン・クレーメル
チェロ:ギードレ・ディルヴァナウスカイテ



 「J. S. バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 BWV1003」が奏でられはじめたとき、私は、ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)の演奏が「ヴァイオリン」という楽器の演奏を超越した「音楽の哲学」であると瞬時に感じられた。奏でられる「音」に魅せられていくのは、「哲学者」の「話」を聴いていて、それに引き込まれていくような気持ちだ。「なんで、あそこまでヴァイオリンという楽器を、いろいろな音調を奏でられるように、繊細に駆使できるのだろうか」。彼の演奏を聴いていると、「ヴァイリン」が、単なる楽器ではなく、「生きもの」なのだ。それは、演奏中、彼とヴァイオリンが一体化しているからだ。これまで聴いたヴァイオリン演奏者のそれとは、全く違う演奏の手法である。

 

 クラシック音楽では、これまで受け入れることができなかった現代曲。しかし、今回のコンサートで、初めて現代曲の演奏を楽しむことができた。それは、「グバイドゥーリナ:リジョイス(喜び)! -ヴァイオリンとチェロのための」という曲で、その奏者は、ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)と、ギードレ・ディルヴァナウスカイテ(チェロ)の二人。

 二人の演奏は、彼らの「動き」(楽器を演奏するときの様子)を見ているだけでも魅了される。そして「楽曲」は、我々の世界とは異なる世界から発せられている「音楽」のように感じられた。二つの楽器が奏でる楽曲の部分にはハーモニーがないように一見感じられるが、実は上手くハーモナイズされたもので、ヴァイオリンとチェロが持っている楽器としての別の面から作り出させる音(通常奏される手法とは異なる手法により捻出される音)を、個性的な奏者による演奏によって聴くことができた。「現代曲は、このように演奏されるべきもの」、ということを実感させられた。

 一見、邪道とも思われるヴァイオリンそしてチェロの弾き方が披露されたが、それは、それぞれの楽器が持っている特性を存分に引き出せる才能を有する奏者だから可能なことなのであって、二人の演奏がまるで「別世界」から聴こえてくるように感じた。

 

 休憩後の二曲、イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第5番 ト長調op. 27-5バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ Sz117では、ギドン・クレーメルによる「ヴァイオリン」演奏を十分に堪能することができた。

2012年4月23日月曜日

東京大学教授: 福島智


平成24421日(土)

東京大学 一般公開講座 平成24421日(土) 第3講義

講師: 福島 智

東京大学 先端科学技術研究センター バリアフリー分野 教授



講義配布資料

1.私の障害体験

 私は9歳で失明し、18歳で失聴した全盲ろう者です。

 今から31年前、18歳で全盲の状態から盲ろう者になった私にとって最も大きな苦痛だったことは、見えない、聞こえないということそのものではなく、他者とのコミュニケーションが消えてしまったことでした。

 私は絶望の状態にありましたが、その暗黒と静寂の牢獄から解放される時がやってきました。

 その「解放」のカギを握っていたのは、読書や文通などの文字による情報のやり取りではなく、たとえ些細なことであっても、「生身の人間と関わる直接的なコミュニケーション」でした。


2.豊かなコミュニケーションを求めて

 つまり、私を最後の一線で救ったものは、他者との相互的なコミュニケーションだったわけです。

 「コミュニケート」の語源はラテン語のコミュニカーレ(communicare)だと言われます。コミュニカーレは、単なる「情報の伝達」だけではなく、「理解し合う」「共に何かを行う」といった意味もあると言われます。

 コミュニケーションの問題を考えるときは、このコミュニカーレの意味を尊重すべきなのではないでしょうか。


3.人生の豊かさは語り合いから

 一人ひとりの人間が生きていく上での「人生の条件」(いわば「グラウンド・コンディション」)には、さまざまなものがあります。「障害」もその一つです。

 たとえば、「草野球」のイメージを例にとりますと、グラウンド・コンディションにハンディがあるとき、そこでのプレイを生き生きとさせる上での重要な要素の一つは、チームメイトや相手チーム、冷やかしの観衆も含めた周囲の人とのコミュニケーションなのではないでしょうか。また、どれほど優れた選手でも一人では試合ができないのと同じように、他者との関わりが人生の土台だと思います。


4.ヴィクトール・フランクルにおける「苦悩」の意味

 ヴィクトール・フランクルは、その著書『意味への意思』の中で次のような図式を示しています。

  「絶望」=「苦悩」-「意味」

 この図式について考えてみます。

 まず、この「方程式」の両辺をいじりますと、

  「意味」=「苦悩」-「絶望」となります。

 「絶望」は、「希望」の反意語なので、「マイナス(-)希望」だと考えると、最終的にこの図式は、

  「意味」=「苦悩」+「希望」となります。


5.ヘレン・ケラーから学んだこと

 201110月、私は米国・アラバマ州にあるヘレン・ケラーさんの生家を訪ねました。そこで実感したことがあります。

 第一は、「ことばは体験から生まれる」ということであり、

 第二は、「知性は愛情に裏打ちされたことばのやり取りから生まれる」ということです。


詩:指先の宇宙

  ぼくが光と音を失ったとき

  そこにはことばがなかった

  そして世界がなかった


  ぼくは闇と静寂の中でただ一人

  ことばをなくして座っていた


  ぼくの指にきみの指が触れたとき

  そこにことばが生まれた

  ことばは光を放ちメロディーを呼び戻した


  ぼくが指先を通してきみとコミュニケートするとき

  そこに新たな宇宙が生まれ

  ぼくは再び世界を発見した


  コミュニケーションはぼくの命

  ぼくの命はいつもことばとともにある

  指先の宇宙で紡ぎ出されたことばとともに

福島 智

講義の聞き取りノート:(S2)

アラブ首長国連邦ドバイ空港での話し

 TOTO製のトイレ

  点字で「日本語」表示があった

 元々の点字は、「書きことば」

 自分から話すことはできたが、コミュニケートが不便

 相手の言っていることが理解できないことが問題

 点字を紙に書いてもらい、それに対して声で答えていたが、時間が掛かった。

 指点字は、「母親」が咄嗟に思い付いた。その場所は台所だったから点字がなかったので。

 智さんが母親に「文句」を言っていたから、母親が智さんの指にタッチしただけ(マスメディアが風潮しているような「神の思い付き」では決してない)。

 実際、母親と話しができても、あまり嬉しくなかった。

 しかし、「指点字」が素晴らしい発見であったことが後になって判った。

 「指点字」によって「世界」が開けた。

 文字情報だけでもだめだと思う。心が癒されない。文字だけでは、乾いた関係になってしますから。

 「人」と「コミュニケート」することが大事!同じような状態の人々の間では、世界的に共通。

 指点字では情報が少ないのではないか、という疑問について

 指点字では、声のような抑揚もないし、男女の区別もできない。

 では、相手のことをどうやって理解するのか。

 奥さんの顔も知らない(奥さんは、智さんに「押しまくられて結婚した」との弁)。しかし、「コミュニケーション」によって「人間」が創られてゆく  見えなくても、聞こえなくても、相手を理解することができる。

 授業では、学生にも「発言」することを求めている。それが「コミュニケーション」であるから。

苦悩の過程@18

 日記、ノート等を書いていた

 結論自分を納得なせた。

  悩みは、海の底まで沈むことを意味する。しかし、一度、海の底に到達してしまえば、それ以降は、浮上するのみ。


Impression

 「福島 智」-強烈に印象に残った人物の一人である。

 ヘレン・ケラーの「闇から光へ」という著書は、20歳の頃に読んだことがある。また、先日(平成24229日(水)NHKTVでも「ヘレン・ケラー」について放送があった(NHK歴史秘話ヒストリア「ニッポン大好き!がんばって!~ヘレン・ケラー 日本との友情物語~」)。

 しかし、実際に「全盲ろう者」の方にお会いしてお話を伺ったのは、今回の講演(東京大学一般公開講座平成24421日(土)第3講義)が初めてだった。

 まず、「全盲ろう者」が置かれている「環境」について、私にはその実感が湧かない。目が見えず、音も聞こえないという「環境」は、想像を絶するものがあると思う。

 私がその立場になったならば、即ち、青春を謳歌しようとしている18歳の時に、彼のように「全盲ろう者」になったならば、彼のように強くかつ逞しく生きて行けるだろうか、と疑問に思った。

 米国の「ミシガン大学」で「英語」を学んでいたとき、キャンパスを歩いていたら、直ぐ近くで「バサッ」という大きな音がしたので振り返ったら、目が不自由な女子学生が、持っていたものを落とした様子だった。すぐに近寄って落ちているものを拾うのを手伝ったら、「点字」で書かれていた教科書だった。それが「点字」の教科書と出会った最初であった。

 それまで、「盲人」の「大学生」が存在することすら認識していなかった自分に恥じた。彼らがあんなに努力しているのだから、五体満足でいられる自分は、もっと努力すべきだと、そのとき痛感した。

 彼らは、我々と比較して、肉体的ハンディキャップを有するだけでなく、それに伴う、より深刻な精神的ハンディキャップを持っているのだろうと思う。