2009年6月30日火曜日

三井記念美術館


2009年6月28日(日)

 最近、古都「鎌倉」を散策するうちに、御寺で庭や花を眺めながら御茶を味わう楽しみを覚えてきた。

 きっかけは、「北鎌倉」にある「東慶寺」で「紅白」の「梅の花」を眺めながら、茶室で御茶を味わったときであると思う。正式な茶室での御茶ではなかったが、生菓子を戴き、そして、御茶を味わうときに感じる「自然」からの語りかけが、私の心を和やかにさせてくれる。

 そのような心の和みを生み出してくれる一連の「御茶」との出会いから、「茶道」に興味を覚えてきた。また、御茶のときに生菓子を味わう楽しみも「茶道」に興味を覚えた要因の一つである。例えば、北鎌倉では「こまき」、鎌倉では「美鈴」の生菓子が私の好みである。

 最近読んだ、川端康成の小説「千羽鶴」は、「茶道」で用いられる「茶道具」(ここでは、主に「志野」の「茶碗」と「水差」)がややもすると、登場する人物よりも、主人公であるように思われる内容であったが、この小説が「茶道具」について勉強するきっかけとなった。

 「茶道具」に興味を覚えたのは、「茶道具」を通じてそれらを所持していた歴史上の人々との直接的な「繋がり」を感じるからである。例えば、「茶碗」、「茶入」、等は、実際にそのものを使用していたのであるから、ある意味で時空を越えてそれらの人々と「茶碗」、「茶入」、等を共有することになる。

 そんな折、東京・日本橋「三井本館」の7階にある「三井記念美術館」で開催されている江戸時代の豪商「三井家」に伝わる「茶の湯」の名品を紹介する展覧会に、その最終日に行ってきた。
 「三井家」の初代「三井高利」の子孫である三井11家のうち、北家、室町家、新町家に伝来する茶碗、茶入、花入、茶の湯釜、書画、等、約80点の「茶道具」を展示している。

 展示品の中でも、特に私が興味を覚えたのは、日本に二つしか存在しない「国宝」の国産「茶碗」の一つを観ることにあった。

 会場に入り、その優美な姿で多くの入場者の注目を集めているのが桃山時代に作られた「花入れ」である伊賀耳付花入「業平」。この「花入れ」は、室町家12代・三井高大の妻が、亡くなった夫をしのんで、平安時代の貴公子「在原業平」にちなんで命名したものであると言う。伊賀耳付花入「業平」を観た後は、会場も多少混雑しているので、他の展示品の観覧を後回しにして、早速、その御目当ての「国宝」の「志野茶碗 銘卯花墻」の展示されている場所に向かう。

 「志野茶碗 銘卯花墻」は、室町家からの展示品であり、「織田有楽斎」(織田信長の実弟、1547~1621)が京都「建仁寺」境内に1618年頃に建てた茶室「如庵」の内部を復元した展示室を囲っているガラスから少し離れた位置の畳の上に、敷物に載せられて展示されていた。遠からず近からず、丁度よい位置に置かれている。

 御目当ての「国宝 志野茶碗 銘卯花墻」には、一目見て魅せられてしまった。この茶碗を観る方向としては、正面と「如庵」の「躙口」(にじりぐち)からの方向との二方向である。正面からは、丸みを帯びて見えるが、躙口からは、「志野茶碗 銘卯花墻」の茶碗の横長方向の度合いが感じられて、その形もなかなか味わい深い茶碗のように思えた。ちょうど前日の土曜日に知人のところで「志野」を見せてもらったが、それを手に取ったときの感触を思い出してみた。「志野茶碗 銘卯花墻」の茶碗は、どのような感触があるのだろうか。
 
 銘の「卯花墻」は、茶碗の胴に施された「四つ目垣の文様」を見て、「片桐石州」が「やまさとのうのはなかきのなかつみち、ゆきふみわけしここちこそすれ」と筆した古歌に由来する。その古歌の小色紙が、箱の蓋裏に貼りつけられていたのでこの銘がある。

 因みに、「うのはな」(卯花)は、見た目が雪のようなので「雪見草」(ゆきみぐさ)とも呼ばれている。花言葉は「謙虚」。この国宝の国産茶碗に相応しい花言葉である。

 やはりどのような道具でも、使ってみなければそれが持つ真の味わいを楽しむことはできないと思う。「志野茶碗 銘卯花墻」は、茶室「如庵」を模した展示室に置かれていて、その内装との調和が素晴らしいと思った。「仏像」を参拝するときに、それらが祀られているお寺で拝観するのが最も素晴らしいのと同じであると思う。因みに、犬山市に存在している本物の茶室「如庵」も「国宝」である。

 なお、茶室「如庵」を模した展示室には、掛け軸として、一山一寧筆の「一山一寧墨蹟」が展示されていた。「花入」に季節の花が飾られていれば、殊の外素晴らしい雰囲気だったように思えたのだが。

 その他の展示品としては、「表千家」とゆかりのある北家からも数々の名品が展示されている。

 特筆すべきは、大名物 唐物肩衝(からものかたつき)茶入「北野肩衝」(重要文化財)。茶入「北野肩衝」は、三井家に数多く伝承されている茶道具の中でも、稀代の名品とされている。足利義満、義政など足利将軍家の所蔵品を伝承する「東山御物」の一つに数えられていた。その後、天正15(1587)年に、史上最も名高い「北野大茶会」が開かれた折に出品され、「豊臣秀吉」の目に留まったという。三井家が「北野肩衝」を手に入れたのは江戸時代中期になってからのことで、現在では「三井記念美術館」の「名宝」として所蔵されている。伝来は、足利義政~三好宗三~津田宗達~烏丸大納言~三木権太夫~三井八郎右衛門~三井宗六~酒井忠義。そして三井記念美術館。

 そして、「本阿弥光悦」が作った黒楽茶碗「雨雲」(重要文化財)も北家からの一つである。「本阿弥光悦」の茶碗としては、もう一つの国産茶碗の「国宝」である「国宝 白楽茶碗 銘不二山」が有名であるが、この黒楽茶碗「雨雲」もなかなか魅力的な茶碗で、口端が鋭く、腰に膨らみがあり、そして高台が低く小さく削られていて、御茶を美味しく戴けそうな形をしている。また、口まわり、等は、釉掛りが薄いという特徴を有している。

 「黒楽茶碗 銘俊寛 長次郎作」(重要文化財:桃山時代・16世紀 室町三井家旧蔵)。これは、「千利休」が薩摩の門人から「長次郎」の茶碗を求められ、3碗送ったうち、この茶碗を残し他の2碗が送り返されてきたので、鬼界ヶ島に残された「俊寛僧都」に見立てて命銘したという。「長次郎」の代表作の一つ。

 掛け軸として、「六祖破経図 梁楷筆 大名物」(ろくそはきょうず・りょうかいひつ・おおめいぶつ)が展示品として目に留まった。梁楷(生歿年不詳)は中国南宋時代の画家。人物画や山水画を得意とした。日本では室町時代以降、牧谿や玉澗とならび、もっとも尊重された中国画家の一人である。本図は、禅宗の第六祖惠能(638~713)が経典を破る姿を描いている。「豊臣秀吉」、「西本願寺」の所蔵を経た後、「松平不昧」へと伝わった。その後、昭和7年(1932)に出雲松平家より新町三井家の所有となった。

 また、「織部焼」で知られている古田織部が書いたものの「消息 修理宛」の「掛け軸」が気になった。それは、「千利休」の弟子でもあり、優れた茶人としての「織部」その人に対する興味なのかもしれない。

 今回の「展示」で感じたことは、確かに「茶道具」は美しいが、それらを使ってこそ、「茶道具」が醸し出す「本当の美」(機能美を含む)を堪能することができるのではないのかということだ。それは、私が「茶道」を嗜んでみればより理解することができると思う。  

2009年6月25日木曜日

鎌倉歴史散策1

 「鎌倉」を訪れる人々は、それぞれが異なる目的を持っているようであるが、「鎌倉」を散策する楽しみは、「鎌倉幕府の歴史」を学ぶことにより、一層面白くなってくる。街中を歩いていると、いろいろな場所に「石碑」が設置されていて、その場所に纏わる事柄・歴史、等を学ぶことができる。

 今日は、「鎌倉生涯学習センターのホール」に「永井路子」さんによる「今、鎌倉をかえりみて」~衣張山のふもとの景観と釈迦堂口遺跡~というテーマの講演を聴きに行く。

 発掘調査中の「釈迦堂口遺跡」は、「北条氏名越亭跡」と推定され、中世の面影が色濃い「まほろば」の地である。

 講演の内容は、前半は、主に「永井路子」さんと「鎌倉」との係わりについて、後半は、「永井路子」さんの直木賞作品《炎環》に描かれている「源氏」と「北条一族」との係わり、そして「源頼朝一族」及びその有力な「御家人」達を滅亡させて実質的に「鎌倉幕府」の実権を支配した「北条一族」の野望に関する内容に関するものであった。

 今回の講演は、宅地を開発する予定地が「北条時政の釈迦堂口邸址」を中心としたものであり、鎌倉の歴史上、重要な場所であるから、「いざかまくらトラスト」等が中心となってその保存を支援する目的の講演であったように思える。個人的にも「北条時政の釈迦堂口邸址」がぜひ保存可能になることを願っている。

 講演が始まるまで時間があったので、小雨の中、すぐ隣にある《大巧寺》に立ち寄る。本堂のすぐ隣の建物からは、御能の稽古をしているらしく、その独特の声の様子が伝わってきた。

 講演の帰り、鎌倉幕府の二代将軍「頼家」の嫡男「一幡」とその母である「若狭局」の実家にあたる代表的御家人の一人であった「比企」一族の終焉の地に建立されている《妙本寺》を参拝した。

2009年6月24日水曜日

韓国と日本の伝統芸能

 「横浜能楽堂」で開催された「日韓古典芸能の名作」を観に行ってきた。この催し物では、「日本」と「韓国」の「古典芸能」、特に「弦楽器」、「管楽器」、「舞踊」の各分野を代表する演者により素晴らしい演奏や踊がそれぞれ披露されて、十分に楽しむことができた。

≪弦楽器≫
「崔玉山流伽 琴散調」 伽 琴:キムヘスク

「さらし」 箏:萩岡松韻、武藤松圃
 三弦:萩岡未貴

≪管楽器≫
「平調会相 上霊山」 ピリ:チョンジェクク

「高麗双調音取」 篳篥:中村仁美

「白浜」 篳篥:中村仁美 高麗笛:八木千暁

≪舞踊≫
「草笠童」 舞踊:イヨウム、イサンユン、パクヘジ 杖鼓:ユ・ギョンファ、ピリ:アン・ヒュンモ、ヘグム:チェ・テヨン

「珍島太鼓舞」 舞踊:ヨムヒョンジュ、ヤンヘソン、アンサンファ ほか 杖鼓:ユ・ギョンファ、ケンガリ:ファン・ミンワン、テピョンソ:アン・ヒュンモ チン:チェ・テヨン、
 鼓:シン・ヒョンシク

「サルプリチュム」 舞踊:ヤンソンオク 杖鼓:ユ・ギョンファ、牙箏:シン・ヒョンシク

「鶴亀」 舞踊:藤間恵都子、水木佑歌
 浄瑠璃:常磐津清若太夫、常磐津若羽太夫 三味線:常磐津文字蔵、常磐津齋蔵

 私自身、従来から好きな「韓国の伝統芸能」に加えて、「日本の伝統芸能」の分野の一つである「琴、三弦」や「日本舞踊」に大変興味を覚えた。これは、自分としても新しい発見であった。特に、「琴、三弦」を弾きながら唄うものを聴くことの素晴らしさを感じた。

 また、「鶴亀」という日本舞踊を、通常は「長唄」で踊るものを、「常磐津」で踊るのを見ることができ、その煌びやかな舞に魅せられた。

2009年6月23日火曜日

御茶


 この頃、「鎌倉」や「北鎌倉」の周辺の散策を楽しみにしているが、機会がある度にお気に入りの「御寺」や「お店」で、気軽に「御抹茶」を頂くことにしている。今迄に御抹茶を戴いた御寺は、「円覚寺」、「浄妙寺」、「報国寺」、「東慶寺」、「明月院」、そしてお店は、北鎌倉駅前の「こまき」である。

 今年の二月に「北鎌倉」の「東慶寺」を参拝した。境内には、「白梅」と「紅梅」が咲きほこり、春の訪れがもうすぐであることを感じた頃であった。
 境内の庭に咲く「紅白」の「梅の花」を観ながら、「白蓮舎」の立礼席で「抹茶」と「紅梅」という「生菓子(練りきり)のセット」を楽しんだ。
 「紅梅」という名前の練りきりは、「北鎌倉駅」の駅前にある和菓子処「こまき」で作られているものだという。見た目にも大変に美しく、立礼席の前に眺める綺麗な「紅梅」を卓上に見事に蘇らせている。餡もほどよい甘さで、抹茶を頂くと口の中に残っていた「紅梅」の甘さがちょうど消えるような感じがする。「東慶寺」で「こまき」の生菓子と共に抹茶を頂けるのは、季節限定であるらしく、幸いであった。

 ここで、以前から疑問に思っていたことであるが、茶道では、「生菓子」と「干菓子」とはどのように使い分けされるのであろうか、というものである。
 その答えは、次の通り:
 茶道では、「生菓子」は、“主に”濃茶で出される菓子(主菓子)、そして「干菓子」は、主に薄茶で出される菓子(添え菓子)ということである。
 イベント等で設けられる「茶席」では、多くの場合「薄茶」が供される。このような「茶席」では(薄茶であっても)「生菓子」だけが出される場合が主である。なお、菓子を多く出す茶席であれば、「生菓子」(主菓子)と「干菓子」(添え菓子)とを一緒に出すこともある。

 最近、贔屓にしている上生菓子処が「鎌倉」にある。雪ノ下の「美鈴」というお店だ。少なくとも一月に一度は御邪魔して、月替りの上生菓子を買って帰る。ここでは、御抹茶を楽しむことはできないが、近くの「大仏茶廊」では、御抹茶と一緒に「美鈴」の上生菓子を楽しむことができる。

 一度、「美鈴」で御茶会用の御菓子を取りに来た若い女性に出会ったことがある。茶道を嗜むとは何とも羨ましい境遇である。

2009年6月22日月曜日

常楽寺

年へたる鶴の岡べの柳原
青みにけりな春のしるしに
                北条泰時

 JR「本郷台駅」で下車し、「旧鎌倉街道」沿いに「鎌倉」方面に向かって歩いて行き、信号機の「常楽寺」という標識で右折してから暫く歩くと、「常楽寺」の参道が右手に伸びている。

 この御寺の「山門」の屋根は、「茅葺」で、なかなか情緒がある。参拝する人をときどき見かけるが、観光客は、まずいない。「北鎌倉」の県道21号線「小袋谷」の交差点から歩いてもあまり距離がないのだが。

 「常楽寺」は、鎌倉の北西を守護する位置にあって、鎌倉幕府第三代の執権「北条泰時」*(1)公と、「建長寺」開山「大覚禅師(蘭渓道隆)」ゆかりの古刹。開創は、嘉禎三年(1237年)12月13日で、『吾妻鏡』によると、泰時公が妻の母の追善供養のため、山ノ内(当時の山内荘)の墳墓のかたわらに一つの梵宇を建立し、退耕行勇が供養の導師をつとめたとある。

 静かな境内には、「本尊阿弥陀三尊像」が祀られている「仏殿」(神奈川県指定の重要文化財)がある。この「仏殿」は、元禄四年(1691年)5月に建立されたもので、方三間(約5m)という小さい御堂ながら、鎌倉の近世禅宗様仏殿の代表的な建物の一つである。「仏殿」の天井には、「狩野雪信」(女性)筆の『雲竜』が描かれている。「狩野雪信」筆の天井絵は鎌倉にはほかにないので、特筆されるべき作品である。なお、「狩野雪信」は、「紫式部像」も描いている。

 御本尊の「木造阿弥陀三尊像」は、室町時代の作で、「観世音菩薩像」、「勢至菩薩像」と共に、なかなか優しい御顔をされた「阿弥陀如来像」が祀られている。この「阿弥陀如来像」は、「北条泰時」公が殊の外帰依されたものと言われている。

 「北条泰時」公の墓は「仏殿」の背後にあり、かたわらには鎌倉時代の高僧「大応国師(南浦紹明)」の墓もある。「北条泰時」公は、鎌倉幕府第三代の名執権である。

 「仏殿」の左側に隣接する「文殊堂(秋虹殿)」には、「木造文殊菩薩坐像」(神奈川県指定の重要文化財)が祀られている。「文殊菩薩坐像」は、鎌倉時代の作で、1月25日の「文殊祭」以外は開扉されない「秘仏」である。

 「色天無熱池」は「仏殿」の右奥にある。色天は欲界のよごれを離れた清浄な世界という意味であり、無熱池とは、徳が最もすぐれているとされる阿耨達(あのくだ)龍王が住み、炎熱の苦しみのない池のことをいう。

 「姫宮塚」は、「粟船山」の中腹に、「木曽塚」は、山頂にそれぞれあり、前者は、「泰時公の女」の霊を祀っており、後者は、「木曾義仲」の子息である「木曽義高」を祀っている。今日は、それぞれの塚に御参りしてきた。

 「常楽寺」は、小さな御寺であるが観るべきものも多く、御庭も小奇麗で、私の好きな鎌倉の御寺の一つである。

大長寺

 今日もどこを散策しようか迷ったが、結局、JR「本郷台駅」で下車し、「鎌倉女子大学」前から「旧鎌倉街道」を通り「北鎌倉」を目指して歩くことにした。

 最初の目的地、岩瀬にある浄土宗亀鏡山護国院「大長寿寺」、通称「大長寺」を訪れた。この御寺は、「徳川家康」とも縁があり、鎌倉の御寺としては、「鎌倉幕府」と直接係わりが無いこともあってか、あまり観光客がいないので静かな雰囲気が漂っており、私の好きな御寺の一つでもある。

 「大長寺」は、もと京都「知恩院」末寺、開祖は、小田原北條氏(後北条)の「北条綱成」で、天文17年(1548年)5月の創建である。

 元の寺号「大頂寺」は、当寺の開基「北条綱成」の奥方(北条氏綱の娘)の戒名「大頂院殿」からきていたが、「徳川家康」公が「山号」が『亀鏡山』なら『大長寺』が似合う」といって寄進状に「大長寺」と書いたことから寺名が改まったと伝えられている。なお、「大頂院殿」のお墓は、本堂の裏山に続く境内にある「北条一族の墓」の中にある「自然石の墓標」のものであると伝えられている。先日、訪れた時に参拝してきた。

 銅葺き屋根の「三門」をくぐり、古びた「石段」を登ると、右手には、ちょっと一部が変色しているが、なかなか丹精な顔立ちの「観音菩薩」の石像がある。また、「石段」を登った左手には「宝蔵」がある。ここには、「徳川家康」公とその父「松平廣忠」の位牌が祀られているという。

 正面には、本尊「阿弥陀如来像」を安置する「本堂」が聳えている。「本堂」の後方一帯を取囲む山々には杉が鬱蒼と生い茂っている。今日は、「本堂」に上り、扉を開けて前回拝顔することができなかった「阿弥陀如来像」を参拝することができた。

 

2009年6月17日水曜日

浄光明寺、佐助稲荷

2009年6月13日(土)
浄光明寺
 鎌倉駅西口から「長勝寺」の門前を通り、JRの踏み切りを渡り、やがてT字路を右に折れてしばらく川添えの小道を歩くと左手に「浄光明寺」の案内板があり、その少し先に「山門」が見えてくる。

 泉谷山「浄光明寺」は、泉ケ谷(扇ケ谷)の谷間に位置する真言宗の御寺。本山は、皇室御菩提所として知られる京都東山「泉涌寺」。創建は、建長三年(1251)で開基は武蔵守「北条長時」(鎌倉幕府第六代執権)、開山は「真阿和尚」(勅謚真聖国師)である。

 「山門」を入ると、すぐ左手に「楊貴妃観音」の石像が祀られている。これは、本山の京都東山「泉涌寺」に祀られている「楊貴妃観音」像に係わりがあるらしい。

 境内には「客殿」、「庫裏」、「不動堂」などがある。「不動堂」の手前には、ピンク色に近い薄紫色の花を付けた「紫陽花」が咲いていた。また、数は少ないが、あざやかな紫色の花の「花菖蒲」が「不動堂」の手前の一角に、更に白い花の「花菖蒲」が「不動堂」の裏側の一角にそれぞれ咲いていた。

 「庫裏」の右脇の階段の昇り口には、「今日は、阿弥陀三尊が拝観できます」との案内札が立っていたので、早速、階段を昇り、階段を上りきったところにある小屋で拝観料を払う。最初に、「収蔵庫」に祀られている「阿弥陀三尊」に参拝する。最初の印象は、これまでに鎌倉の寺院で拝観したどの「阿弥陀三尊」ともかなり趣が異なっていることであった。

 「阿弥陀三尊」の中尊である「阿弥陀如来」坐像は、「宋風」の創りで、胸前に両手を挙げる「説法印(上品中生印)」を結んでいる。「説法印」を結んでいる「阿弥陀如来」の像は大変に珍しいという。また、「阿弥陀如来」坐像の指先は細長く、その指先には爪の造形が施されており、鎌倉時代における高位の生身の人間の体形を具現化している独特な坐像であるという。

 「阿弥陀如来」坐像は、「宝冠」を着けているが、これは、江戸時代末期に着けられたものらしく、青銅製である。本来の「阿弥陀如来」座像は、「宝冠」が載せられていなかったが、「宝冠」を装着させたままにしてあるとのこと。

 私が好きな「阿弥陀如来」坐像としては、京都・大原「三千院」の極楽往生院に祀られているものがあるが、「浄光明寺」の「阿弥陀如来」坐像は、その御顔が「三千院」のそれよりもすっきりした形をされているものの、その眼は、魚眼が入れられていて、かなりはっきりと開いた状態のものである。

 「阿弥陀如来」坐像の「肩」、「袖」、「脚部」などには、「土紋」と称される、浮き彫り状の装飾が施されているが、これは鎌倉地方の仏像に特有の技法で、土を型抜きして花などの文様を表したものを貼り付けたものである。また、「衣文」にも他の「阿弥陀如来」像にはあまり見受けられない特徴がある。

 「阿弥陀如来」坐像及び「観音菩薩・勢至菩薩」坐像は、三尊とも「蓮華座」の上に置かれて祀られている。特に「阿弥陀如来」坐像が祭られている「蓮華座」は、実に素晴らしい創りで、「蓮」の「華」が幾重にも立体的に彫られていて「鎌倉彫」の「原点」とも言われている。

 「観音菩薩・勢至菩薩」坐像は、結跏趺坐(座禅の形)ではなく足をくずして坐り、中尊「阿弥陀如来」坐像の方に頭部をわずかに傾けて作られている。「観音菩薩・勢至菩薩」坐像の写実的な「衣文」表現や、生身の人間のような「面相」表現は、「阿弥陀如来」坐像以上に顕著な「宋風」であるらしい。「観音菩薩・勢至菩薩」坐像は、私が今迄観た「観音菩薩・勢至菩薩」像の中ではかなり傑出した坐像である。

 「浄光明寺」の「阿弥陀三尊」は、「覚園寺」の「薬師如来坐像」と同様に、「鎌倉時代の代表的な仏像」と評されている。

 「収蔵庫」には、上述した「阿弥陀三尊像」以外にも、「足利尊氏」の弟である「足利直義」の「念持仏」と言われている「矢拾地蔵尊像」が祀られている。「矢拾地蔵尊像」は、「収蔵庫」に左側の側壁に祀られていて、像を正面から見ることができない。鎌倉の寺院には、「地蔵尊像」が多く祀られているように思う。また、右側の側壁には、「仏舎殿」のようなものが置かれていた。

 本来、重要文化財の本尊「阿弥陀如来」坐像及び両脇侍「観音菩薩(向かって右側)・勢至菩薩(向かって左側)」坐像は、二階堂に在った「永福寺」から移された「阿弥陀堂」に祀られていた。しかし、本尊及び両脇侍ともに木造で正安元年(1299年)の作(但し作者不詳)で、創られてから既に「710年」の歳月が経過しているので、保存のために湿気や温度を調整する必要があり、そのために「収蔵庫」に保存されるようになった。「収蔵庫」は、由緒ある仏像を祀る場所としてはちょっとそっけない造りなので、御堂らしい装飾をその内部に施して「阿弥陀三尊像」を祀って欲しいと思う。

 「永福寺」から移された由緒ある「阿弥陀堂」には、現在、新しい如来像が三体祀られている。「過去・現在・未来」をそれぞれ表す三世仏「阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来」の像である。歴史が浅いという点を除けば、仏像としては、それぞれがなかなか立派な創りである。北鎌倉の「浄智寺」の「曇華殿」(仏殿)には、同様に、その御本尊として三世仏「阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来」の像が祀られている。

 「観音堂」には、「千手観音像」が祀られているが、「不動堂」に祀られている「不動明王像」と同様、残念ながら一般公開されていない。

 「阿弥陀堂」のさらに裏手の狭い階段を上った先の山上には「やぐら」があり、内部に「石造地蔵菩薩坐像」(通称網引地蔵)が安置されている。

 その「やぐら」からさらに登ったところには国の史跡に指定されている「冷泉為相」(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓と言われている「宝筐印塔」がある。「藤原定家」の孫であり、「十六夜日記」の作者である「阿仏尼」の子息である、「冷泉為相」のお墓に御参りしたことは、大変感慨深いものがある。

 先日、「鎌倉文学館」で「阿仏尼」の「十六夜日記」のレプリカを見たが、その達筆な文字に魅了された。それ以来、「冷泉為相」に対しても興味を覚えた。

 「冷泉為相」のお墓がある場所からは、「泉ケ谷」の谷間が一望でき、飛んでいる「鳶」の姿をその上方から眺めることができる。

 「浄光明寺」を参拝して心が清められた後、直ぐに帰宅しようかと思ったが、まだ参拝したことがない「佐助稲荷神社」を訪れることにした。

 来た道を、「長勝寺」の門前を通り、「紀伊国屋鎌倉店」の角を右折して「鎌倉市役所前」に出たらそのまま直進し、「佐助トンネル」を通り抜け、「銭洗弁天・佐助稲荷」の案内板に沿って歩く。やがて、住宅街の中の道になる。

 静かな「佐助ヶ谷」に、初夏の訪れを告げる「時鳥」(ほととぎす)の鳴き声が木霊している。暫くその声に聞き惚れる。なんだか「鎌倉時代」にタイムスリップしたような感覚だ。

 「時鳥」の鳴き声は、自宅の近くや鎌倉の他の場所でも時々聞くことがあるが、あまり魅力的であるとは思えなかったので、今迄、和歌に頻繁に詠まれている程にはその鳴き声に感激することはなかった。

 しかし、「佐助ヶ谷」の「佐助稲荷」の谷間に木霊するその声を聞いたときに、「時鳥」の鳴き声の素晴らしさをやっと実感することができた。しばらく御社の近くの縁台に座りながら「時鳥」の鳴き声に聞き惚れてしまった。

 御社の近くには「やぐら」があり、そこには「湧き水」が湧いていた。その近くの岩壁には、可憐な「紫の花」が咲いていた。この可憐な花が「イワタバコ」であることを帰宅してから知った。「佐助稲荷」は、「イワタバコ」の隠れた名所でもあるらしい。

 御社の裏山の斜面には、紫色の「紫陽花」の花が咲いていて、とても綺麗である。どうやら「佐助稲荷」は、隠れた花の名所であるようだ。

  山路より出でてや来つる里ちかきつるが岡辺に鳴くほととぎす
冷泉為相
(藤谷和歌集)

2009年6月11日木曜日

長寿禅寺(長寿寺)

 ちょうど通りを歩いているときに、拝観することができないと思っていた「長寿寺」が一般に開放されている「特別拝観」の期間中であることを知り、急遽、予定を変更して入山させて頂くことにした。

 宝亀山「長寿禅寺」は、関東管領であった「足利基氏」により、父改築「足利尊氏」の菩提を弔う為にその邸跡に延文3年(1358年)に建長寺派寺院として創建された。なお、「足利基氏」(幼名「亀若丸」)は、「足利尊氏」の第四子である。

 一般公開された「長寿寺」は、「本堂」や「書院」、等、主だった建物が改築されていて、私は、大いに気に入った。日本の御寺は、歴史を重んじるばかりに、なかなか「本堂」、等を改築したりすることができないのだが、この御寺はちがっていた。

 「本堂」に祀られている御本尊の「釈迦如来像」も新しい像のようだが、凛としていて素晴らしい創りである。

 特筆すべきは、やはり「書院」及び「小方丈」に上がって眺める「御庭」であろう。鎌倉の御寺では、「書院」から「御庭」をゆっくりと眺めることは、なかなか体験できないので、本当に素晴らしいことである。

 昨日、鎌倉の「大仏茶廊」の御庭で観た「つつじ」と同じ種類のものが綺麗に咲いていて、しばし佇んで眺めている。どうやら、この「つつじ」が大好きになってしまったようだ。

 「御庭」を眺めていると、直ぐ近くの県道を通る車の騒音を忘れ、ゆったりとした時の流れの中で、「仏」(自然)との「対話」が行なわれているような心境になる。それは、ちょうど「京都」や「奈良」の御寺で御庭を拝見しているときの雰囲気に似ている。

 また「書院」や「小方丈」の建物は、厳選された木材、等を使用して一部が改築されたものなので、新旧の和合がうまく調和していて、御寺が開山された当時の雰囲気を十分に味わうことができる。

 今日は、「書院」で「原山五葉個展」が開かれていて、いろいろな作品を見ることができた。彼女の書の作品は、なかなか素敵だ。その中でも気に入ったものとしては「西行法師」の和歌を記したものや、源氏物語の「桐壺」の絵、等である。御寺の中でこのような個展が開かれるのは、心が和み、なかなか感じがよいものである。

 御朱印を戴き、御住職の奥様と暫く話をした後、「本堂」を出て、拝観順路に従って「観音堂」へ向かう。

 「観音堂」は、もと奈良県の古刹忍辱山「園成寺」に在った「多宝塔」を改造移築したもので、その中には、「桐の一本彫」で造られた凛とした「聖観世音菩薩像」が祀られている。なかなか素晴らしい「聖観世音菩薩像」である。
 
奈良県の古刹忍辱山「園成寺」は、帰国後に「奈良」を旅したときに訪れた御寺の一つで、当時はまだ庭園が復元中で、重要文化財であった運慶の作であると伝えられていた「大日如来像」(現・国宝)を本堂の中で間近に観ることができたのが大変印象に残っている。これも何かの御縁であろうか。また、「聖観世音菩薩像」の背後の絵は、「迦陵頻伽(がりょうびんが)」の鳥が描かれている。

 「観音堂」裏の「やぐら」には、「足利尊氏」のお墓がある。御参りする。

その後、拝観順路に従って進むと「竹林」の木立の中に、「シャガ(著莪・射干)」(学名:Iris japonica・別名:コチョウカ(胡蝶花))の綺麗に花がたくさん咲いていて、自然と微笑んでしまった。春の訪れを感じるひと時である。

そして、程なく、先程の「庭園」及びその「裏庭」を眺めることができる。これは、最も素晴らしい景観だ。「書院」及び「小方丈」を含めたその眺めは、いつまで観ていても飽きることがない。

 「長寿寺」は、「北鎌倉」でも私のお気に入りの御寺:「円覚寺」、「東慶寺」、「明月院」の仲間の一つになってしまった。いろいろな季節を通して、度々訪れたいと思う。

東慶寺 早春の思い出


心よりやがてこころに伝ふれば
さく花となり鳴く鳥となる
      釈 宗演

 どいう訳か門前を通るといつも惹きつけられて自然と入山してしまう御寺の一つに「北鎌倉」の「東慶寺」がある。しかし、今日は、初めから訪れる予定だった。先月に続いての参拝である。

 今日の目的は、先に「東慶寺」のHPで調べておいた「仏像特別展」(3月7日(土)~5月10日(日)まで開催)を「東慶寺・松ヶ岡宝蔵」で見ることである。実は、前回訪れた際に、茶室で別の客が「《観音像》を見たいのだが、どこで見ることができるのか」と係りの人に尋ねていたところ、「予約をしないと見られないかもしれません」と言われていたことが気になり帰宅して調べたところ、その《観音像》とは、《水月観音菩薩半跏像》のことだということが判った。そのうち、「東慶寺」のHPで3月7日(土)から「仏像特別展」が開催されることを知り、「仏像特別展」で《水月観音菩薩半跏像》を拝観できるようなので、今日の参拝を計画したのである。

 展示会場である「松ヶ岡宝蔵」は、9時半に開場なので、ちょっと間があり、少し境内を散策することにした。

 御寺の奥にある開祖「覚山尼」(北条時宗の正室 父:安達義景、母:北条政子の弟・時房の娘)の墓所、後醍醐天皇の皇女「用堂尼」(5世)の墓所、豊臣秀頼の娘「天秀尼」(20世)の墓所、等に御参りするが、9時少し過ぎの早朝は、まだ観光客がいないので、静寂な境内をゆっくりと散策することができた。

 境内には、「みつまた」の黄色と赤の二種類の綺麗な花が咲いている。「松ヶ岡宝蔵」の入口近くには、綺麗な水仙が咲いていた。

 「松ヶ岡宝蔵」に入館する。入館料を払い、御朱印の記帳を依頼して入る。まだ誰も入館していないので、私一人が独占して仏像、等をゆっくりと拝観することができる。

 まず、入ってすぐのところに「木造 聖観音菩薩立像」祀られている。

 もと鎌倉尼五山の筆頭「太平(尼)寺」の本尊である。その凛とした御姿は、なかなか魅力的で、尼寺の御本尊らしく柔和な尊貌をされておられる。ゆっくりと参拝させて戴いた。

 展示場となっている二階に上がると、一目でそれと判る魅惑的な観音像「水月観音菩薩半跏像」が展示されていた。通常は、「水月堂」に祀られていて、拝観には電話かハガキでの予約が必要(特別拝観料300円)であるが、今回は、「松ヶ岡宝蔵」で拝観することができた。

 白衣をまとい岩座の上にゆるやかに、やや斜めに腰をかけ、水に映る月を眺めるので、水月観音と呼ばれる。右足を半跏にし、左足を垂下し右手に未敷の蓮華を持つ。衣文の複雑なひだの表現もたくみで、衣につつまれた膝の丸みの刻出も自然で、我々の苦悩のすべてを包み込んでくださるような柔和で慈悲深い尊貌をされておられる。

 鎌倉で美男の代表は「長谷の大佛様」、美女の代表は小さいけれど「松ヶ岡東慶寺の水月観音様」と言われているようである。

 小粒ながらなかなか魅力的な半跏像である。ケースの中に保護されているので、かえって安心して近づいて御顔や御姿をよく観察することができる。久し振りに魅せられた仏像だ。

 次に、「阿弥陀如来立像」がある。この「阿弥陀如来立像」は、両蓮華座に両足で立つ尼僧好みの弥陀の尊像であり、豊臣秀頼の娘「天秀尼」(20世)の念持仏であったが、堀主水の元・妻であった「寿林尼」に「天秀尼」が与えたものである。

 更に、「地蔵菩薩像」もなかなか印象的である。今迄、地蔵尊には魅力を感じたことはないが、ここの地蔵尊はちょっと赴きが異なり、しばし佇んで眺めてしまった。

 それ以外にも、興味を覚えた仏像が何体かあった。

 特に魅力を感じたのは、高村光雲・作の「聖観世音菩薩立像」である。

 また、「蒔絵」が施され数々の物品や、「釈宗演」に関する資料、等、小規模ながら、「東慶寺」の貴重な寺宝が展示されており、時間を忘れてしまう程であった。

 「松ヶ岡宝蔵」での拝観を終えて山門を出るときに、山門の左手前の「彼岸桜」が綺麗な花を咲かせており、いよいよ春の訪れを告げていた。

2009年6月9日火曜日

東勝寺跡と宝戒寺

 京急「新逗子駅」から歩き始める。「小坪」を経由して、「材木座海岸」を通り「光明寺」の本尊「阿弥陀如来像」を参拝し、本日の目的である「祇園山ハイキングコース」を通り、「東勝寺址」、「東勝寺橋」を巡る散策である。

 「鶴岡八幡宮」が建立される前に信仰されていた「元八幡神社」を参拝する。この「元八幡神社」の周辺に「芥川龍之介」が新婚時代に住んでいたという。そして、「元八幡神社」からJR横須賀線の踏切を渡ってすぐの「薬師堂」に御参りして、「大町交差点」を通り過ぎ、「八雲神社」の境内へ向かう。

 「八雲神社」の境内裏から急坂を登って行くと雨上がりの山道は、やはりかなりぬかるでいた。また、二日前まで降っていた雨のためか湧水が出ているところもかなりある。暫く登ると、やがて「展望台」及び「高時切腹やぐら」の分岐点に到着する。約50メート右手に進むと、「展望台」があり、「材木座」から「由比ガ浜」を含む海岸が眺められる。再び分岐点に戻り、「高時切腹やぐら」を目指す。

今日は、真夏日でかなり暑いはずであるが、「祇園山ハイキングコース」は、新緑に覆われていて、心地よい風が時折通り過ぎてゆくので、歩いていると汗は多少出てくるが、暑さをあまり感じない。「祇園山ハイキングコース」は、「天園ハイキングコース」と比べると距離は短いけれども起伏があり、よい運動になった。

 やがて「高時切腹やぐら」に到着。実質的に鎌倉幕府を確立した「北条一族」の歴史がここで途絶えた場所である。ところどころに見られる大木の杉がその歴史を見つめていたのだろうと思うと、感慨深いものがある。

 近くには、「東勝寺址」がフェンスに囲まれて保存されている。後方には、いくつかの「やぐら」が見られる。

 「東勝寺」は、鎌倉幕府三代執権「北条泰時」が創建した臨済宗の禅寺(北条氏の菩提寺)であった。元弘3年、新田義貞らの鎌倉攻めの時、十四代執権「北条高時」ら一族郎党がここに立てこもり、寺に火を放ち、自刃して最期を遂げた。寺はその後直ちに再興され、室町時代には、関東十刹の第三位に列するも、戦国時代には廃絶したとされる。

 やがて「滑川」が流れる「東勝寺橋」にさしかかる。この「東勝寺橋」は、青砥藤綱の「銭さらい」の物語の舞台となった場所でもある。この物語とは、「青砥藤綱は、北条時宗、北条貞時の時代に、裁判官をしておりました。ある夜のこと、失敗してお金十文を滑川に落したので、松明を五十文で買って、水の中を照らさしてお金をさがし、とうとうそのお金をさがしだしました。そのことを人々は、得たものよりも失ったものの方が大きい、大損だ、と笑いました。しかし藤綱は、十文は小さいが、これを無くすことは、天下のお金を無くすことである。私は、五十文を無くしたが、これは人々の為になったのである、と諭しました。」というもの。この物語の舞台となったところが、ちょうどこの「東勝寺橋」のあたりである。

 「東勝寺橋」周辺の河岸は、よく整備されていて、「新緑」がその下を流れる「滑川」の川面を覆うように広がっており、初夏のような陽射しのためにその緑が眩いばかりに輝いている。近くには、小さな公園もあり、緑の木陰と「滑川」の清流の元で、孫を連れたおじいちゃんが、楽しそうに遊んでいた。

 今日の散策の目的は、これで遂行できたので、帰宅しようと思ったが、目にとまった案内板に沿って史跡「紅葉山やぐら」の方に歩いてみることにした。それは、ちょうど「宝戒寺」の裏を通る路である。その路を歩いている途中で、御寺の紋が「北条の家紋」の「三鱗」(みつうろこ)であることが気になり、「紅葉山やぐら」を見た後、「宝戒寺」を参拝することにした。

 「紅葉山やぐら」は、崩壊後に見付けられたところらしく、「やぐら」の様子を窺うこともできないような状態で整備されていて、扉まで付けられてしまっていた。

 「紅葉山やぐら」から戻り、脇道を出て「小町大路」を右に曲がって整えられた敷石が綺麗な参道の「宝戒寺」に入る(参拝料100円:本堂参拝券付き)。

 「宝戒寺」は、正式寺名を「金竜山釈満院円頓宝戒寺」と言い、鎌倉二十四地蔵第1番、鎌倉三十三観音第2番であり、9月頃に咲く白い花「萩」が有名である。

 歴史的には、1333年に「新田義貞」に攻められて「鎌倉幕府」(執権:北条高時の時)が滅亡するまで「北条宗家(得宗家)」の屋敷が有ったところである。その地に「後醍醐天皇」の命令で「足利尊氏」が北条一族の怨霊をしずめるために開いた御寺が「宝戒寺」である。建武2年(1335年)に「天台宗」五代座主の「慈威和尚」が開山を勤めた。

 境内に入り、いろいろな建物が目に付いたが、まず本堂に上ることにした。

 本堂の「本尊地蔵菩薩坐像」(国重文)は、胎内銘から1365(貞治4)年「三条法印憲円」の作であることがわかったもので、地蔵像としては珍しい座像で、「子育経読地蔵」とも呼ばれている。同じ堂内に安置されるもう一つの小さな「地蔵菩薩像」は、「足利尊氏」の「念持仏」と伝えられている。

 また、本堂には、鎌倉33観音第2番札所として、札所本尊の「准胝観音(じゅんていかんのん)像」が「地蔵菩薩像」の向かって左側に祀られている。この「准胝観音像」は、あまり日本では信仰されていない珍しい像である。

 京都・「醍醐寺」の「准胝観音像」がよく知られていたが、残念ながら2008年に落第による火災で上醍醐「准胝堂」とともにその本尊が消失してしまった。今度「宝戒寺」を訪れるときには、御朱印帖を持参して御朱印を頂戴しようと思う。

 本堂を出ると、その右脇には「徳宗大権現堂」があり、最後の第14代執権「北条高時」を祀っており、その内部には「北条高時の木造」が安置されている。

 また、本堂の右手奥には、「歓喜天堂」がある。その御堂には、日本最古の木造聖天像で、秘仏の「歓喜天像」(国重文・非公開)が祀られている。 「宝戒寺」を参拝した後、帰宅。

鎌倉大谷美術館


 鎌倉市佐助にある《鎌倉大谷記念美術館》(住所:神奈川県鎌倉市佐助、館長:大谷正子)を訪れた。

 ここは、「ホテルニューオータニ」の前会長、そして「ニューオータニ美術館」の前館長であった「大谷米一」氏の元鎌倉別邸を改装した美術館である。

 大きな美術館以外のところで、絵画、彫刻、ガラス工芸品、等の美術品を間近に鑑賞するのは、実に久し振りである。

 《鎌倉大谷記念美術館》の門を入り、緩やかに左にカーブする上り坂を歩いて行くとやがて美術館の入口に到着する。

 アーチ形の入口の階段を上ると正面に加藤唐九郎の陶板の大作「白雲青松」(白い上の部分が雲、下の青緑部分が松)が飾られている。玄関のドアを開けて館内に入る。雰囲気的には個人の洋風邸宅に御邪魔するような感覚である。

 邸内の入ると直ぐ左手に受付がある。大変に知的で品格がある女性が受付をされていた。入館料を払うと、「靴をお脱ぎにならず、そのままでお上がり下さい」と言われたので、靴を履いたまま邸内に入る。

 玄関は、一階から二階まで吹き抜けになっていて、大変に明るい感じがした。入って直ぐのところに、「ピエール・ボナール」による「公園の中の子供達」の大きな縦長の絵が飾られていた。また、吹き抜けのところの壁には色彩豊かな「ステンドグラス」の窓が造られている。

 また入口からちょっと上がったところに、素敵な構成の「サンルーム」があり、広々とした窓からは、鎌倉の市街地を眺めることができる。

 「サンルーム」には、アントワーヌ・ブールデルによるブロンズ像「暁の乙女」及び「ペネロペ」の2点の彫刻と、ローマ時代の彫刻の1点が展示されている。そして「サンルーム」の窓越しに眺める御庭もなかなか綺麗だ。「いい創りの御宅だなぁ」とつくづく思う。

 《鎌倉大谷記念美術館》を訪れたときには、『花とエコール・ド・パリの美女達』—ローランサンを中心に—という特別展(2009年4月7日(火)から6月27日(土)まで)が開催されていて、「エコール・ド・パリの画家」の代表的な画家である「マリー・ローランサン」の作品を中心に、「キスリング」、「モジリアーニ」、「ドンゲン」の作品が展示されていた。

 どれも素晴らしかったが、マリー・ローランサンの代表作「少女と小鳥」が大変に魅力的であった。
 また、今回初公開されたローランサンによるルイス・キャロル著『不思議の国のアリス』の挿絵本(リトグラフ)も大変に可愛いらしいアリスが描かれたものだ。

 独自の神秘的な雰囲気の中にも明るい色彩で可憐な春の花を描いたルドンの「花瓶の花」は、見れば見るほど魅了されてしまう絵である。一見、写実的な絵であるが、近づいて見ると、繊細なタッチで実によくそれぞれの花が描かれている。

 ルドンの作品とは対象的に、その繊細な美しさの中にも油絵の力強さが溢れているキスリングの「花」は、ルドンの作品以上に私を魅了してしまった。なかなかこの絵から離れることができなかった程である。

 そして更に、一度ぜひ観てみたいと思っていたのレオナール・フジタ(Leonard FOUJITA(藤田嗣治))の作品の一つである「婦人像」が展示されていた。

 工芸は、「ジャポニスムの先導者」と言われ、アール・ヌーヴォーの中心的役割を果たした「エミール・ガレ」の作品で、涼やかな草花模様に流水を配した「エナメルガラス花器」と「プラム文様花器」が展示されている。どちらもなかなか素敵なガラスの工芸作品である。
7月に展示品が模様替えされたときにまた訪れてみようと思う。鎌倉散策での楽しい立ち寄り場所の一つになった。

2009年6月8日月曜日

美鈴と報国寺


6月に入り夏のような陽射。やはり今日も「鎌倉」へ来てしまった。自宅から少し電車に乗り、散策するには「鎌倉」が一番好き場所である。

 当初「浄光明寺」を訪れてみようと思っていたが、電車の中で、「美鈴」の月替りの生菓子を思い出し、早速「鎌倉駅」東口で降りて「美鈴」に立ち寄ることにした。

 今月の生菓子は「青梅」。「青梅」は、自家製の梅干しを青梅色の餡に練り込み、梅の形に仕上げたもの。お茶用の生菓子なのでやはり甘いが、口の中に入れるとほのかに「梅の香」を感じてなかなか美味しい。「美鈴」で会員制のことについて聞いたら、送料がかかるので、「午前中ならばだいたい購入できますが、前日に予約をして頂ければ、このように取り置きしておきますから確実ですよ」と、後ろに置かれている箱を示しながら、女将さんが言われたのを聴いて少し安心した。

 「青梅」をリュックの中に入れてから、「宝戒寺」の門前を通り、「竹の庭」がある「報国寺」に行ってみようと思い立つ。「大御堂橋」を渡り、「田楽辻子の道」を通って行くと、やがて「報国寺」に着くが、その手前で「紫陽花」が綺麗なピンクや紫、青、白、等の色とりどりの「花」を咲かせている。

 今日は、「報国寺」でゆっくり過ごすことにする。

 「山門」を潜り、すぐ右手の階段を上がって行くと、「本堂」に到着する。「竹の庭」への入口には「写経ができます」との案内があった。調べてみたら、毎月第一日曜日だけ「写経会」があるようだ。一定の時間帯の間だけ受付けているようである。

 「御朱印」をお願いして、「竹の庭」に入る。「竹の庭」を眺めながら御抹茶を楽しんでいると、何か小さな竹の枯れ皮のようなものが空から沢山降ってきた。「竹の妖精」と私はそれを命名した

 御抹茶を味わった後、更に御庭を散策する。「やぐら」の回りには、「紫陽花」の紫や水色の花が綺麗に咲いていた。 「枯山水の御庭」が眺められる境内の一室では、「写経」が行われていた。何人かの御夫人が参加されている様子。本当は、「写経」を行った後に、「御朱印」を頂くべきなのであるが。今度訪れたときには、「枯山水の御庭」を見ながらゆっくりと「写経」を行ってみようと思っている。

 「鐘楼」の近くに、沢山の「供養塔」があるがそこには、「歌碑」があった。よく読めなかったが、帰宅して調べたところ、「供養塔」は、「由比ガ浜」で亡くなった新田軍及び北条軍の戦死者を追悼するもので、「歌碑」は、その追悼歌の歌碑であった。「山門」の手前には、微笑ましい石像の「お地蔵さま」が祀られており、その近くには「紫陽花」の花が綺麗に咲いていた。

 今日は、「報国寺」を訪れたら、それ以外のところへ行く気にならず、「鎌倉」を後にした。

睡蓮


 初夏から夏の間に花が咲く「花菖蒲」と「あやめ」或いは「かきつばた」は、大変に見分け難いが、それはさておいて、《睡蓮》(water liliy)と「蓮」も同様になかなか見分け難い花である。

 先日、「大船のフラワーセンター」に行ったときに、まず外にある「睡蓮池」に日本の「睡蓮」の「花」が咲いていて「ほぉ、《睡蓮》の花ってこんなに綺麗だったのか」と、その美しさに感動したものである。

 そして、「大船のフラワーセンター」内の「温室」に入ると、外国産の《睡蓮》が何種類かあり、あざやかな黄色、紫、水色、等、いずれも綺麗な花を咲かせていた。中には、眠っている《睡蓮》が2種類程あったが夜に花が咲く種類であるらしい。

 特に注目したのは、外国産の熱帯《睡蓮》の花が大変に美しかったことである。そこで、外国産の熱帯《睡蓮》に格別の興味を抱くようになった。どうやら一瞬にして《水の妖精》の虜になってしまったようだ。

 その中でも、たった一つだけ、綺麗な青色の花の熱帯《睡蓮》の名前を記憶している。それは、《ペンシルベニア》(Pennsylvania)別名[ブルービューティ]と呼ばれているもので、熱帯《睡蓮》の代表的な品種の一つであるらしい。この美しさは、カメラでは表現できないだろうなぁと思った。

 また、薄黄色の花が大変に綺麗な《セントルイス・ゴールド》(St.Louis Gold)という熱帯《睡蓮》も印象的であった。

 余談だが、「エジプト」では、熱帯《睡蓮》は、《ナイルの花嫁》と言われていて、国花にもなっている。

2009年6月4日木曜日

明月院 姫紫陽花


2009年5月30日(土)
 朝から曇り時々雨の天気だ。まだ花の盛りには時期がちょっと早いように思えたが、今日は、《明月院》の《姫紫陽花》を観に行くことにする。

 「北鎌倉駅」で下車して歩き始めるが、《明月院》の入口付近には既に警備員が二人待機している。どうやら今日あたりの週末から混雑するようだ。

 「山門」へ向かう階段の両脇には、紫色の《姫紫陽花》が所々で綺麗に咲いている。予想していたよりもまだ人の出が少なかったのは幸いだ。ゆっくりと《姫紫陽花》を観賞することができる。

 まだ大半の紫陽花が満開とは言えない状態であるが、その中でも既に咲いている《姫紫陽花》は、小雨に濡れて花の色がいっそう鮮やかに観えて実に綺麗である。

 今日は、待望の《本堂後庭園》を観賞できるので、《本堂》の御本尊《聖観世音菩薩》を御参りした後、早速入園させて戴く。

 《本堂後庭園》の側から《方丈》の「丸窓」を通してみる「枯山水の庭」も《さつき》の桃色の花が盛りでなかなか情緒があって綺麗だ。

 鮮やかな濃い紫色の《花菖蒲》が咲き誇る《本堂後庭園》がある「明月谷」には、「不如帰」の鳴く声と「鶯」の鳴く声が木霊している。まるで深山に入ったような雰囲気だ。その《本堂後庭園》の一角には、数は少ないが美しく林立している杉木立があり、その根元に苔が生えて、山の上から清流が流れて何段かの「滝」を形成している場所がある。近くには、優しい御顔の「御地蔵様」が祀られている。ここが御寺の一部であることを思い出させてくれる。《本堂後庭園》を二度巡って退園することにした。

 《本堂後庭園》を参拝した後、境内にある《月笑亭》で抹茶を頂くことにした。まだ色付いていない《姫紫陽花》が「やぐら」周辺のような「境内」のいたるところに多く見られた。これらの《姫紫陽花》が一斉に色付いたらさぞ綺麗だろうなと思われる。

 《月笑亭》へ向かう途中で、散策されている人がちょうどその近くにいた庭師の人に「この花は何ですか?」と尋ねているのが聞こえた。その答えは、《夏ロウバイ》であったが、どこに咲いているものやら。
《姫紫陽花》ばかりを鑑賞していたので《夏ロウバイ》の場所を確かめなかったが、帰宅してから《夏ロウバイ》が可憐な花を咲かせているということを知り、ちょっと残念なことをしてしまった。

 《月笑亭》入口の付近には、他の種類の紫陽花も咲いているが、さすがに《姫紫陽花》の数と比べればかなり少ない数なのであまり目立たないが、これらの紫陽花もなかなか綺麗な花を咲かせている。

 《明月院》は、「北鎌倉」で私が好きな御寺の一つである。四季それぞれに訪れてみると、いろいろな花や景色にその都度出会えるので、本当にその素晴らしさを味わうことができる。6月上旬にもう一度訪れてみようと思う。