2009年6月9日火曜日

東勝寺跡と宝戒寺

 京急「新逗子駅」から歩き始める。「小坪」を経由して、「材木座海岸」を通り「光明寺」の本尊「阿弥陀如来像」を参拝し、本日の目的である「祇園山ハイキングコース」を通り、「東勝寺址」、「東勝寺橋」を巡る散策である。

 「鶴岡八幡宮」が建立される前に信仰されていた「元八幡神社」を参拝する。この「元八幡神社」の周辺に「芥川龍之介」が新婚時代に住んでいたという。そして、「元八幡神社」からJR横須賀線の踏切を渡ってすぐの「薬師堂」に御参りして、「大町交差点」を通り過ぎ、「八雲神社」の境内へ向かう。

 「八雲神社」の境内裏から急坂を登って行くと雨上がりの山道は、やはりかなりぬかるでいた。また、二日前まで降っていた雨のためか湧水が出ているところもかなりある。暫く登ると、やがて「展望台」及び「高時切腹やぐら」の分岐点に到着する。約50メート右手に進むと、「展望台」があり、「材木座」から「由比ガ浜」を含む海岸が眺められる。再び分岐点に戻り、「高時切腹やぐら」を目指す。

今日は、真夏日でかなり暑いはずであるが、「祇園山ハイキングコース」は、新緑に覆われていて、心地よい風が時折通り過ぎてゆくので、歩いていると汗は多少出てくるが、暑さをあまり感じない。「祇園山ハイキングコース」は、「天園ハイキングコース」と比べると距離は短いけれども起伏があり、よい運動になった。

 やがて「高時切腹やぐら」に到着。実質的に鎌倉幕府を確立した「北条一族」の歴史がここで途絶えた場所である。ところどころに見られる大木の杉がその歴史を見つめていたのだろうと思うと、感慨深いものがある。

 近くには、「東勝寺址」がフェンスに囲まれて保存されている。後方には、いくつかの「やぐら」が見られる。

 「東勝寺」は、鎌倉幕府三代執権「北条泰時」が創建した臨済宗の禅寺(北条氏の菩提寺)であった。元弘3年、新田義貞らの鎌倉攻めの時、十四代執権「北条高時」ら一族郎党がここに立てこもり、寺に火を放ち、自刃して最期を遂げた。寺はその後直ちに再興され、室町時代には、関東十刹の第三位に列するも、戦国時代には廃絶したとされる。

 やがて「滑川」が流れる「東勝寺橋」にさしかかる。この「東勝寺橋」は、青砥藤綱の「銭さらい」の物語の舞台となった場所でもある。この物語とは、「青砥藤綱は、北条時宗、北条貞時の時代に、裁判官をしておりました。ある夜のこと、失敗してお金十文を滑川に落したので、松明を五十文で買って、水の中を照らさしてお金をさがし、とうとうそのお金をさがしだしました。そのことを人々は、得たものよりも失ったものの方が大きい、大損だ、と笑いました。しかし藤綱は、十文は小さいが、これを無くすことは、天下のお金を無くすことである。私は、五十文を無くしたが、これは人々の為になったのである、と諭しました。」というもの。この物語の舞台となったところが、ちょうどこの「東勝寺橋」のあたりである。

 「東勝寺橋」周辺の河岸は、よく整備されていて、「新緑」がその下を流れる「滑川」の川面を覆うように広がっており、初夏のような陽射しのためにその緑が眩いばかりに輝いている。近くには、小さな公園もあり、緑の木陰と「滑川」の清流の元で、孫を連れたおじいちゃんが、楽しそうに遊んでいた。

 今日の散策の目的は、これで遂行できたので、帰宅しようと思ったが、目にとまった案内板に沿って史跡「紅葉山やぐら」の方に歩いてみることにした。それは、ちょうど「宝戒寺」の裏を通る路である。その路を歩いている途中で、御寺の紋が「北条の家紋」の「三鱗」(みつうろこ)であることが気になり、「紅葉山やぐら」を見た後、「宝戒寺」を参拝することにした。

 「紅葉山やぐら」は、崩壊後に見付けられたところらしく、「やぐら」の様子を窺うこともできないような状態で整備されていて、扉まで付けられてしまっていた。

 「紅葉山やぐら」から戻り、脇道を出て「小町大路」を右に曲がって整えられた敷石が綺麗な参道の「宝戒寺」に入る(参拝料100円:本堂参拝券付き)。

 「宝戒寺」は、正式寺名を「金竜山釈満院円頓宝戒寺」と言い、鎌倉二十四地蔵第1番、鎌倉三十三観音第2番であり、9月頃に咲く白い花「萩」が有名である。

 歴史的には、1333年に「新田義貞」に攻められて「鎌倉幕府」(執権:北条高時の時)が滅亡するまで「北条宗家(得宗家)」の屋敷が有ったところである。その地に「後醍醐天皇」の命令で「足利尊氏」が北条一族の怨霊をしずめるために開いた御寺が「宝戒寺」である。建武2年(1335年)に「天台宗」五代座主の「慈威和尚」が開山を勤めた。

 境内に入り、いろいろな建物が目に付いたが、まず本堂に上ることにした。

 本堂の「本尊地蔵菩薩坐像」(国重文)は、胎内銘から1365(貞治4)年「三条法印憲円」の作であることがわかったもので、地蔵像としては珍しい座像で、「子育経読地蔵」とも呼ばれている。同じ堂内に安置されるもう一つの小さな「地蔵菩薩像」は、「足利尊氏」の「念持仏」と伝えられている。

 また、本堂には、鎌倉33観音第2番札所として、札所本尊の「准胝観音(じゅんていかんのん)像」が「地蔵菩薩像」の向かって左側に祀られている。この「准胝観音像」は、あまり日本では信仰されていない珍しい像である。

 京都・「醍醐寺」の「准胝観音像」がよく知られていたが、残念ながら2008年に落第による火災で上醍醐「准胝堂」とともにその本尊が消失してしまった。今度「宝戒寺」を訪れるときには、御朱印帖を持参して御朱印を頂戴しようと思う。

 本堂を出ると、その右脇には「徳宗大権現堂」があり、最後の第14代執権「北条高時」を祀っており、その内部には「北条高時の木造」が安置されている。

 また、本堂の右手奥には、「歓喜天堂」がある。その御堂には、日本最古の木造聖天像で、秘仏の「歓喜天像」(国重文・非公開)が祀られている。 「宝戒寺」を参拝した後、帰宅。

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