2009年8月12日(水)
久し振りに日光を訪れた。今回は、バスツアーなので、自由時間はあまりなかったが、現地でガイドが付いたので、今迄何度か見ていた場所に関していろいろ説明があり、それらの場所の由来、等について理解することができた。
まず昼食を食べてから、「日光山輪王寺」の大本堂である「三仏堂」を参拝する。
「輪王寺」の中心が大本堂で、「三仏堂」と呼ばれている。「三仏堂」という呼び名の由来は、3体の本地仏-ほんじぶつ-をまつっていることによる。寺伝によれば、慈覚大師円仁が入山したときに、比叡山の根本中堂を模して建立したと伝える。山岳信仰にもとづき、日光の三山つまり「男体山」(なんたいさん)、「女峰山」(にょほうさん)、「太郎山」(たろうさん)を神体とみて、その本地仏である「千手観音」(男体山)、「阿弥陀如来」(女峰山)、「馬頭観音」(太郎山)の三仏をまつった。 現在、「三仏堂」で拝観できる本尊は、江戸時代初期のもの。当時の優れた技法がうかがわれ、本邦屈指の木彫大座像仏といわれている。3体とも金色の寄木造りで、台座から光背の頂まで約8メートルある。
「三仏堂」は、創建以来、移築が繰り返された。創建当時は、稲荷川河畔の滝尾神社近くだったが、仁治年間(1240~1242年ころ)に鎌倉3代将軍「源実朝」によって現在の東照宮の地に移された。その後、元和3(1617)年の東照宮創建の折に、今の二荒山神社社務所の地にあり、現在のような大きな伽藍になったのは、慶安3(1650)年の落成のときである。
そして、明治4(1871)年の神仏分離の際に、今の場所に移されることになった。しかし、当時の輪王寺は財政が苦しく、解体して運んだだけだった。それを嘆いた明治天皇のおぼしめしによって再建できたという。 現在の建物は、昭和29(1954)~36(1961)年に大改修している。数少ない天台密教形式で、間口33.8メートル、奥行き21.2メートルと日光山でいちばん大きい。屋根は銅瓦ぶき、堂は総朱塗り、柱は漆塗りのケヤキ材。 堂内には伝教大師、慈恵大師、慈眼大師の像もあり、また日光山祈祷所では毎朝欠かさず日光伝来の護摩が修されている。
続いて、「東照宮」を参拝する。やはり「世界遺産」として登録された処だけに見るべきものは多いが、それにしても多くの観光客で溢れていた。
ここでの興味は、「陽明門」の彫り物の説明と、三匹の「猿」を中心とする「猿」の彫り物に関する説明であった。
本殿に昇って御参りすると共に、「眠り猫」の彫刻も見ることができた。そして、久し振りに「鳴き竜」を見てきたが、拍子木で打つと成る程「鈴」の鳴るような音が反響して聴こえてくる。
そして、最後に「ニ荒山神社」を参拝する。ここが最も静かなところであった。
本殿は、徳川2代将軍秀忠公が寄進した安土桃山様式の優美な八棟造りの元和5(1619)年に造営した当時のままの、ただ1つの建造物として、重要文化財になっている。 間口11メートル、奥行き12メートルで、7メートルの向拝(社殿の正面階段の上に張り出したひさしの部分)がつく。単層入母屋-たんそういりもや-の反り屋根造りで、黒漆塗りの銅瓦ぶき(創建当時は柿-こけら-ぶきか檜皮-ひはだ-ぶき)。正面は、千鳥破風-ちどりはふ-(屋根の斜面に取り付けた装飾用の三角形の破風)、向拝軒唐破風-こうはいのきからはふ-つきである。 本殿の四方は縁側で、内部は弁柄漆極彩色。内部は内陣・外陣と分かれて、内陣に神霊がまつられている。外部全面に飾り金具をほどこしているが、東照宮と比べると落ち着いた装飾である。 1間(約1.8メートル)1戸の平唐門、棟門の掖門-わきもん-、格子組みの透塀-すきべい-が本殿を囲んでいる。 ところで、本殿造営が2代将軍秀忠公の寄進でおこなわれたことは、明治35(1902)年の修理の際に発見された旧棟木片で確認された。そこには「御本線棟札」「御建立征夷大将軍-せいいたいしょうぐん-源秀忠公」と大書されており、「元和五年己未-つちのとひつじ-九月」の日付のほか、奉行、大工など工事責任者の名前まで書かれていたのである。 この旧棟木片は本殿とともに、明治41(1908)年に、また唐門・掖門・透塀・鳥居は昭和19(1944)年に、それぞれ国の重要文化財に指定されている。
12時15分に日光カステラ磐梯店を出発し、3時に戻ってきたので、約3時間に亘る散策であったが、時間が大変に短く感じられた。
バスへ戻る途中で「ニ荒山神社」門前の老舗茶屋「おきなや」で食べた天然氷は、「吉新氷室(四代目氷屋徳次郎)」のものだった。大変に美味しかった!因みに、注文したのは「氷レモン」。
バスに戻る時間が迫っていて、注文を受けたのが「お婆さん」であったからちょっと心配したのだが。
まず、氷が少なかったので、氷室から塊を取り出してきた。既に二つに切られているが手だけではちょっと離れなかったので錐を当ててから小槌で一塊を剥がし取って、もう一つを室に戻す。そのときの氷を見て、「立派な氷だなぁ」と思う。そして、取り出した塊を氷掻き器に載せる。昔懐かしい手動式の氷掻き器で削られた氷が山盛りで出された。
氷の「切れ」が全く違っていた。「見た目」にも、そして「味」でも。
そのときは知らずに食べたが、後で妻が「あれ天然氷よ」と教えてくれた。
現代、日本で天然氷を作っているのは、日光3軒(吉新氷室(四代目氷屋徳次郎)・松月氷室・三ツ星氷室)、秩父1軒(阿左美冷蔵)、軽井沢1軒(渡辺商会)の全国でたった5軒だけ。 因みに、NTVの日曜日午後6時半からベッキーが出演していた料理番組で、子供が料理を覚えるために、その道のエキスパートに修行するというプログラムがあったが、そのとき、ある男の子が御父さんのために「天然氷」のオンザロックを飲ませたいというので、何ヶ月にも渡り、「天然氷」を作ることを匠に学んでいたことがあった。その場面を思い出す。
2009年8月19日水曜日
寒川神社 神嶽山神苑

2009年8月15日(土)
8月になって漸く相模国一之宮「寒川神社」に御参りすることができた。今年は随分遅くに参拝することになってしまった。
去年戴いた「八方除けのお守り」を納めてから本殿へ向かう。
しかし、今日は、「薪能」が開催されるために舞台や観客席の設定が行われていて、境内の様子がいつもと大分違っていた。「賽銭箱」の位置もずらされていて、何か奇異な感じだ。
参拝を済ませて、帰る途中で、「神嶽山(かんたけやま)神苑」公開中の案内があった。これまで参拝したときには、そのような場所は、なかったと思う。そこで、早速、その場所を訪れて見ると、入口で、「御祈祷を申込まれた方にのみ開苑しています」とのこと。それでは、「御祈祷」をお願いしてみようと思い立ち、生まれて初めて自分自身で「御祈祷」をお願いすることにした。
「祈祷願い所」に行き、備え付けの用紙に諸事を書き込み、初穂料を納めて申し込む。
御祈祷のカード7番と、「神嶽山神苑」入苑券を受け取り、「待合所」でしばし待機。最初は、数組が待っている程度だったが、私の後から、かなりの数の祈願者が入所してきた。煎茶とお供物を戴きながら、7番が呼ばれるのを待つ。
待つこと15分程で、呼び出しがあり、ほとんど全員がソファの椅子から立ち上がった。みんな7組だったのだ。
「寒川神社」の「御紋」入りの白い「羽織」(「ちゃんちゃんこ」の大きめのようなもの)が全員に配られたので、「羽織」を身に付けで前紐を蝶結びにし、流れている手水でお清めをしてから「拝殿」に入る。
「寒川神社」の「拝殿」に入るのは、そして大きな神社の「拝殿」に入ること事態が、初めての体験である。「拝殿」に入ってから「椅子」に着座する。厳かな気分になる。やはり「神様」に御参りするという、ある種の緊張感は、なかなかによいものである。
特に、「神道」は、仏教寺院とは異なり、「仏像」のようなものが存在しないので、「拝殿」の奥にある「本殿」に祀られている「もの」、例えば、山、木、等のような「自然の対象物」を「神」としたものであるから、「神」と対面するということが実感できる(例えば、奈良の「春日大社」の「木の輪」、日光二荒山神社の御神体「男体山」、静岡・浅間神社の御神体「富士山」、等)。
いよいよ御祈祷の始まりである。まず椅子から全員が起立して、見習い神主による「御払い」を受ける。
続いて、二番目の上級神主が来て太鼓を打ち鳴らす。
そして、最も偉い神主さんの登場。祭壇の直前に座り、多くの鈴が取り付けられた長い紐を震わせて鈴を鳴らす。ご祈祷が始まり、そして、参列者の住所、名前、そして祈願の内容が祈願した一人一人に対して読まれて行く。やはり神主さんがご祈祷されると雰囲気も違うし、厳かな気持ちになる。
「拝殿」の祭壇の中央には「八咫鏡(やたのかがみ)」が置かれていて、祭壇の下の両脇には、「狛犬」らしからぬ「狼犬」のような「犬の彫り物」が左右対称の位置の置かれている。これは初めて見る「犬の彫り物」である。
先の偉い神主さんが再び長い紐を震わせて鈴を鳴らしてご祈祷が終わると、先の見習い神主さんから各自が「榊(さかき)の枝」を受け取り、祭壇前の台に「榊の枝」を置いてニ礼ニ拍してから御祈りを行い一礼したら終了となる。
「羽織」を巫女さんに返却したら、終わりかと思っていたら、名前が書かれた「八方除けの御札」、「御神酒」、「お箸」、「お守り」、そして「浄め土」、等が入っている袋が用意されていた。それならば、納めた初穂料は、さほど高くはないと思った。
「拝殿」から出て、いよいよ待望の「神嶽山神苑」を見学することにする。
「神嶽山神苑」は、「寒川神社」が「本殿」の造営10周年を記念して平成17年から進めてきた「神嶽山」周辺整備が竣工して2009年8月2日(日)に一般への開苑が始まった。
「神嶽山」は、「寒川神社」の「本殿」の裏手に位置する「山」で、その一角には、同神社の起源と深い関わりを持つとされる神池「難波の小池」が位置している。
「難波の小池」の水は、毎年1月2日の「追儺(ついな)祭」で神前に供えるとともに、邪気を祓うため境内に撒かれる神聖なものである。
「神嶽山神苑」は、「神嶽山」や「難波の小池」のほか、周辺に「浄め土受所」や「手水舎」が設置されている。
その奥には、日本の伝統技術を結集した「池泉回遊式庭園」が造成されている。庭園内には、中央に位置する「八氣(はっき)の泉」を囲むように、茶屋「和楽亭(わらくてい)」や茶室「直心庵(ちょくしんあん)」、八方除の資料を展示した「方徳資料館」、そして雅楽や舞楽の演奏を行う「石舞台」がある。
また、「土橋(どばし)」と「石橋」の二つの橋が架けられていて、「石舞台」を含む厳粛な空間と、「茶室」や「資料館」などの憩いの空間とを分けて構成されている。
上述した「方徳資料館」は、「八方除」の資料を展示していて、一見の価値がある。「八方除」には「古代朝鮮」から渡来したと思われる「陰陽師」が係わっていて、どうやら「古代朝鮮」の「百済」と「寒川神社」との係わりが暗黙のうちに示されていると思われる。
「庭園」を散策し、「方徳資料館」を見物した後、茶屋「和楽亭」で御茶を戴くことにした。干菓子も二種類付いていて、なかなか上品な味だ。そして御茶もなかなか美味しい「薄茶」である。先月、「東慶寺」の「寒雲亭」で戴いたものによく似た味の御茶で、きっと同じ御茶であると思う。
茶屋「和楽亭」からは、「池泉回遊式庭園」の中央に位置する「八氣の泉」がよく見渡せる。庭園内に在るいくつかの滝も綺麗な流れを育むように造園されていて、一瞬「京都」にいるような雰囲気になる。秋は、さぞ綺麗だろうと思われる。また、「土橋」の上からは、「本殿」の様子をよく眺めることができる。
残念ながら茶室「直心庵」は、公開されていなかったが、なかなか立派な茶室である。せっかく「神嶽山神苑」を公開しているだから、ここも見学できるようにしてくれたらと、少し残念に思う。
「神嶽山神苑」の一般への開苑は、2009年の年内は、11月30日(月)まで。入苑には、「祈祷の申込み」が必要である。なお、12月から3月までは閉苑となる。
8月になって漸く相模国一之宮「寒川神社」に御参りすることができた。今年は随分遅くに参拝することになってしまった。
去年戴いた「八方除けのお守り」を納めてから本殿へ向かう。
しかし、今日は、「薪能」が開催されるために舞台や観客席の設定が行われていて、境内の様子がいつもと大分違っていた。「賽銭箱」の位置もずらされていて、何か奇異な感じだ。
参拝を済ませて、帰る途中で、「神嶽山(かんたけやま)神苑」公開中の案内があった。これまで参拝したときには、そのような場所は、なかったと思う。そこで、早速、その場所を訪れて見ると、入口で、「御祈祷を申込まれた方にのみ開苑しています」とのこと。それでは、「御祈祷」をお願いしてみようと思い立ち、生まれて初めて自分自身で「御祈祷」をお願いすることにした。
「祈祷願い所」に行き、備え付けの用紙に諸事を書き込み、初穂料を納めて申し込む。
御祈祷のカード7番と、「神嶽山神苑」入苑券を受け取り、「待合所」でしばし待機。最初は、数組が待っている程度だったが、私の後から、かなりの数の祈願者が入所してきた。煎茶とお供物を戴きながら、7番が呼ばれるのを待つ。
待つこと15分程で、呼び出しがあり、ほとんど全員がソファの椅子から立ち上がった。みんな7組だったのだ。
「寒川神社」の「御紋」入りの白い「羽織」(「ちゃんちゃんこ」の大きめのようなもの)が全員に配られたので、「羽織」を身に付けで前紐を蝶結びにし、流れている手水でお清めをしてから「拝殿」に入る。
「寒川神社」の「拝殿」に入るのは、そして大きな神社の「拝殿」に入ること事態が、初めての体験である。「拝殿」に入ってから「椅子」に着座する。厳かな気分になる。やはり「神様」に御参りするという、ある種の緊張感は、なかなかによいものである。
特に、「神道」は、仏教寺院とは異なり、「仏像」のようなものが存在しないので、「拝殿」の奥にある「本殿」に祀られている「もの」、例えば、山、木、等のような「自然の対象物」を「神」としたものであるから、「神」と対面するということが実感できる(例えば、奈良の「春日大社」の「木の輪」、日光二荒山神社の御神体「男体山」、静岡・浅間神社の御神体「富士山」、等)。
いよいよ御祈祷の始まりである。まず椅子から全員が起立して、見習い神主による「御払い」を受ける。
続いて、二番目の上級神主が来て太鼓を打ち鳴らす。
そして、最も偉い神主さんの登場。祭壇の直前に座り、多くの鈴が取り付けられた長い紐を震わせて鈴を鳴らす。ご祈祷が始まり、そして、参列者の住所、名前、そして祈願の内容が祈願した一人一人に対して読まれて行く。やはり神主さんがご祈祷されると雰囲気も違うし、厳かな気持ちになる。
「拝殿」の祭壇の中央には「八咫鏡(やたのかがみ)」が置かれていて、祭壇の下の両脇には、「狛犬」らしからぬ「狼犬」のような「犬の彫り物」が左右対称の位置の置かれている。これは初めて見る「犬の彫り物」である。
先の偉い神主さんが再び長い紐を震わせて鈴を鳴らしてご祈祷が終わると、先の見習い神主さんから各自が「榊(さかき)の枝」を受け取り、祭壇前の台に「榊の枝」を置いてニ礼ニ拍してから御祈りを行い一礼したら終了となる。
「羽織」を巫女さんに返却したら、終わりかと思っていたら、名前が書かれた「八方除けの御札」、「御神酒」、「お箸」、「お守り」、そして「浄め土」、等が入っている袋が用意されていた。それならば、納めた初穂料は、さほど高くはないと思った。
「拝殿」から出て、いよいよ待望の「神嶽山神苑」を見学することにする。
「神嶽山神苑」は、「寒川神社」が「本殿」の造営10周年を記念して平成17年から進めてきた「神嶽山」周辺整備が竣工して2009年8月2日(日)に一般への開苑が始まった。
「神嶽山」は、「寒川神社」の「本殿」の裏手に位置する「山」で、その一角には、同神社の起源と深い関わりを持つとされる神池「難波の小池」が位置している。
「難波の小池」の水は、毎年1月2日の「追儺(ついな)祭」で神前に供えるとともに、邪気を祓うため境内に撒かれる神聖なものである。
「神嶽山神苑」は、「神嶽山」や「難波の小池」のほか、周辺に「浄め土受所」や「手水舎」が設置されている。
その奥には、日本の伝統技術を結集した「池泉回遊式庭園」が造成されている。庭園内には、中央に位置する「八氣(はっき)の泉」を囲むように、茶屋「和楽亭(わらくてい)」や茶室「直心庵(ちょくしんあん)」、八方除の資料を展示した「方徳資料館」、そして雅楽や舞楽の演奏を行う「石舞台」がある。
また、「土橋(どばし)」と「石橋」の二つの橋が架けられていて、「石舞台」を含む厳粛な空間と、「茶室」や「資料館」などの憩いの空間とを分けて構成されている。
上述した「方徳資料館」は、「八方除」の資料を展示していて、一見の価値がある。「八方除」には「古代朝鮮」から渡来したと思われる「陰陽師」が係わっていて、どうやら「古代朝鮮」の「百済」と「寒川神社」との係わりが暗黙のうちに示されていると思われる。
「庭園」を散策し、「方徳資料館」を見物した後、茶屋「和楽亭」で御茶を戴くことにした。干菓子も二種類付いていて、なかなか上品な味だ。そして御茶もなかなか美味しい「薄茶」である。先月、「東慶寺」の「寒雲亭」で戴いたものによく似た味の御茶で、きっと同じ御茶であると思う。
茶屋「和楽亭」からは、「池泉回遊式庭園」の中央に位置する「八氣の泉」がよく見渡せる。庭園内に在るいくつかの滝も綺麗な流れを育むように造園されていて、一瞬「京都」にいるような雰囲気になる。秋は、さぞ綺麗だろうと思われる。また、「土橋」の上からは、「本殿」の様子をよく眺めることができる。
残念ながら茶室「直心庵」は、公開されていなかったが、なかなか立派な茶室である。せっかく「神嶽山神苑」を公開しているだから、ここも見学できるようにしてくれたらと、少し残念に思う。
「神嶽山神苑」の一般への開苑は、2009年の年内は、11月30日(月)まで。入苑には、「祈祷の申込み」が必要である。なお、12月から3月までは閉苑となる。
2009年8月11日火曜日
茶の湯1

鎌倉・東慶寺の茶室「寒雲亭」にて、武者小路千家の正教授の先生の指導による「体験茶道教室」に参加してみた。
「東慶寺」の受付で支払いを済ませ、受付に待機されていた先の同席者の一人(男性)に案内されて「寄付」に入る。
ここで、案内して戴いた方と対話する。彼は「東慶寺」で庭、等の世話をして働いているという。
茶室「寒雲亭」は、京都の「裏千家」にある茶室と同じ名前であるが、この「東慶寺」の「寒雲亭」が元々京都の「裏千家」にあったもので、明治時代、東京の久松家に移築され、その後、鎌倉・材木座の堀越家を経て昭和35(1960)年、堀越家から寄進されて「東慶寺」に移築されたものである。「寒雲亭」には、「真行草(しんぎょうそう)の天井」、その草にあたる船底型の天井の下には、「千宗旦」筆の「寒雲」の扁額、そして「櫛形の欄間」が施されている(平成6(1994)年改修)。
靴下を履き替えて待機する。そのうち、既に数回に亘り教室に参加されている3名の女性が到着した。今日の参加者は、私を含めて5名であるが、初めて参加するのは、私一人であった。
暫くすると、今回の教室参加に際してメールで何度が交信したことがあるIさんが「寄付」に見えられたので挨拶をする。
ちょっと雑談をした後、「寄付」を出て「草鞋」を履き、「露地」を通って「茶室」へ向かう。苔の生えている「露地」はなかなかみごとで風情がある。これは、初心者の私のために行ったものであるが、教室への参加の回数が重ねられると、どうやら省略されるらしい。
「露地」を通り抜けると「茶室」の茶室の「入り口」(立ったまま入れる「貴人口(きにんくち)」)に到る。「踏み石」で「草鞋」を脱ぎ、「扇子」を「貴人口」から「広間」に入ったところのちょっと先に置いてから軽く会釈をして「広間」に入る。
「広間」に上がったならば、まず、「床の間」の前に進み、「掛け物」の前で「扇子」を自分の膝前に置いてから、軽く会釈をして、「掛け物」を拝見する。
「掛け物」は、東慶寺の前住職「釈宗演」による書であった。(後でそれが判った。そして、書かれている字とそれらの内容の説明があった。)
続いて、竹筒の「花入れ」の正面に向きを変えて、「扇子」を自分の膝前においてから、やはり軽く会釈をして、「花」を眺める。「むくげ、だなぁ」と気付く。しかし、それに添えられている花はわからない。(後で聞いたが忘れてしまった)
そして、「通り路」と仮定されている畳の上を歩いてから、自分の席まで歩き、そこで向きを変えて着座する。自分の膝と前の畳の縁との「間隔」は、手のひらが入るくらいの「間隔」で座る。座ったら「扇子」を自分の膝前において、軽く会釈をする。手の付く場所は、かならず自分の正面で手をつくこと。そして、左脇に「懐紙をいれた持ち物」、そして右脇に「扇子」をそれぞれ置く。
枕が配られたので御尻の下に敷く。これで正座が大いに楽になる。すると自然と姿勢もよくなってゆく。
全員が着座した後、先生から御挨拶があり、早速、生菓子が銘々皿にて配られた。今日は、季節の「水羊羹」。銘々皿は、それぞれの人の「縁の外」に置かれている。そして、「冷たいうちに」ということで、銘々皿を「縁の内」に置いてから、皿の向きを変えて、「水羊羹」を頂戴する(なかなか美味しい。(どこのだろうか。北鎌倉「こまき」のものかなぁ)。
いよいよ、お点前であるが、すでに亭主の方は、最初の御茶を準備している。
先生を除いて考えると、正客から順番に御茶の御点前が始まった。今回の教室では、私を案内してくれた男性が正客となった。
まず、正客が席を立ち、茶碗を亭主のところまで取りに行く。作法が始まった。無事に御茶を頂戴し終えたようだ。
次いで、二番目の客が茶碗を亭主のところまで取りに行く。そして、無事に御茶を頂戴し終えた。
そして、私の番であるが、私は初心者なので、半東の方が、亭主のところから茶碗を運んできて下さった。
私の膝前の縁の外に茶碗が置かれた。ここで半東の方に軽く会釈をする。
次いで、茶碗を縁の内に取り込む。このときは自分の膝右手前に茶碗を置く。そして、次の客(左側)との間に茶碗を移し、「お先に」と会釈して、茶碗を自分の正面点前に置き換えてから、亭主に「お点前頂戴いたします。」と会釈してから右手で茶碗を持ち、左手で茶碗の台を支えから、胸元近くに運び、時計方向に二度(約90度)回転させて、正面の絵を移動させてから茶を頂戴する(飲み干す:何口で飲み終わってもよい)。
飲み終えたら、飲んだところ(口)を指で拭い、懐紙で指を拭き、茶碗を半時計方向に二度(約90度)回転されて、正面の絵が自分に向くようにする。
ここで、茶碗を眺めてもよいが、懐紙を下に敷いてからその上で眺める。これは、茶碗の中に残っている御茶が多少こぼれても大丈夫なようにするためである。
綺麗な絵柄の茶碗である。妻が持っている茶碗に、かなりよく似ていたが、その絵柄をあまりよくは覚えていない。
眺め終わったら、一度、縁の内で茶碗を自分の点前に置き、正面が受け取る側の方になるようにして、縁の外へ置く。そして、半東の方に会釈をして。私の番が終わる。
後は、残りの人が終わるまで、お点前をしている亭主の道具の使い方や作法を眺めることにした。(心の中では、茶室から外の「露地」を眺めて見たかったのだが)。
「炭」で炊かれている風呂に載せられた釜には、すでにお湯が沸いている。御点前の数に合せて、「水差し」から水を足している。「炭」が炊かれていれば、そこには「香」があるはずだが、緊張していたので、私には「香」を感じることができなかった。
綺麗な瑠璃色のガラス製の大きな「水差し」で円形の蓋には蝶番が直径に沿って二つ付いていて半円形のいれかを開けることができるようになっている。
お点前が一通り終わってから正客がその名前及び由来を尋ねた(棗、茶杓の拝見を申し出、問答するというものであるが、この手順にも作法がある)茶道具が回ってきた。
棗は、「夕顔」の蒔絵があしらわれた「夕顔」という名の棗で、蓋の裏側は銀で覆われている。棗の中の御茶も綺麗に盛られていて、お点前で使われた部分がみごとに取り出されていることが一目でわかる。茶杓は、東慶寺さんのものである。
お点前が終わり、亭主が片付けを終えるまで皆で注目。
そして、先生を囲んで、雑談の一時となる。
ここで茶道入門教室は終了となる。そのまま居残って4名の生徒さんの習う様子を見学してもよいとのことなので、見学することにした。
「広間」は、「京間」の八畳で、かなり広く感じられる。また、夏の茶室らしく、簀戸(すど)で囲まれていて、見た目には涼しげであるが、実際には、戸を開けない風が通らないので涼しくない。
後で判ったことだが、「むくげ」は、「千宗旦」が好んだ花であるという。
境内からは、散策する観光客の声が時折聞こえてくるが、静まり返ると、鶯の綺麗な鳴声が「谷戸」に木霊して聴こえてくる。いつもは参拝するだけの「東慶寺」を、違った形で楽しむことができた。
今回の教室では、既に何回か参加されている4名の方と同席させて戴き、初めて参加するのが私一人であったので多少緊張したが、同席した人々の作法を見ながら、そして、指導してくださった方々のお陰で何とか一通りの作法を体験することができた。
せっかく学んだ「茶席内での作法」及び「客ぶり」は、やはり実績を重ねることが必要であると思うので、これからは、茶室「寒雲亭」にて催される「月釜」に機会を見て参加したいと思っている。扇子、懐紙、そして、それらを入れるものを買っておこう。
私の目的は、「茶を楽しむ」(茶席で御茶を頂戴する)ときの作法を学ぶことにあったので、その目的にかなったものであった。しかし、やはり一通り茶道を習得すべきであろうと感じた。機会を見計らって、続けて教室に参加したいと思う。
2009年7月17日金曜日
科学技術週間@つくば

平成21年度(第50回)「科学技術週間」の一環として開催された「つくばの研究機関」の特別公開に出かけてきた。
目的は、2008年のノーベル物理学賞を受賞した益川・小林理論を実験的に検証した「KEK」(高エネルギー加速器研究機構)の実験施設の一つである「Belle」測定装置を見学することである。
「KEK」の「コミュニケーションプラザ」には、小林誠教授が受賞された「ノーベル物理学賞」の「メダル」(大きさ:直径66mm・重さ:200g)のレプリカ、「賞状」、そして、御二人のサインが書かれている「益川・小林の論文」が一緒に展示されていた。
ちょうど実験中だったので、残念ながら「Belle」測定装置の中枢部分を直接見ることはできなかったが、「Belle」測定装置の概観を直接見ることができたので感激した。
また、今回の一般公開ツアーでは、特別に「Belle」の「コントロールルーム」にも立ち入ることができ、ちょうど「コントロールルーム」の「ディスプレー」にはリアルタイムで対生成されている「素粒子の軌跡」が瞬時に映し出されてくるので感動的であった。
「素粒子の軌跡」は、私が米国の大学及び大学院に留学しているときに実験していた加速器を利用した重イオン-原子衝突により生成されるX線のスペクトル(累積形)とは全く異なる映像であるが、実験室そのものの雰囲気は、研究員または大学院生と思われる女子二人が「Belle」のベビーシッターを行っていたので、「TUNL(Triangle Universities Nuclear Laboratory)」の「実験室」と同じようなものであった。
「KEK」のもう一つの施設「Photon Factory(PF)」(フォトンファクトリ)のいくつかのビーム端の実験施設を階上から眺めることができた。実験施設の数から様々な研究が行われていることが一目瞭然である。しかし、こちらは、「TUNL」のビーム端の施設の雰囲気とあまり違いがなく、大変に懐かしい光景であった。
米国留学時代に過ごした「加速器を利用した物理実験」の世界にしばしば郷愁を感じた一日であった。
目的は、2008年のノーベル物理学賞を受賞した益川・小林理論を実験的に検証した「KEK」(高エネルギー加速器研究機構)の実験施設の一つである「Belle」測定装置を見学することである。
「KEK」の「コミュニケーションプラザ」には、小林誠教授が受賞された「ノーベル物理学賞」の「メダル」(大きさ:直径66mm・重さ:200g)のレプリカ、「賞状」、そして、御二人のサインが書かれている「益川・小林の論文」が一緒に展示されていた。
ちょうど実験中だったので、残念ながら「Belle」測定装置の中枢部分を直接見ることはできなかったが、「Belle」測定装置の概観を直接見ることができたので感激した。
また、今回の一般公開ツアーでは、特別に「Belle」の「コントロールルーム」にも立ち入ることができ、ちょうど「コントロールルーム」の「ディスプレー」にはリアルタイムで対生成されている「素粒子の軌跡」が瞬時に映し出されてくるので感動的であった。
「素粒子の軌跡」は、私が米国の大学及び大学院に留学しているときに実験していた加速器を利用した重イオン-原子衝突により生成されるX線のスペクトル(累積形)とは全く異なる映像であるが、実験室そのものの雰囲気は、研究員または大学院生と思われる女子二人が「Belle」のベビーシッターを行っていたので、「TUNL(Triangle Universities Nuclear Laboratory)」の「実験室」と同じようなものであった。
「KEK」のもう一つの施設「Photon Factory(PF)」(フォトンファクトリ)のいくつかのビーム端の実験施設を階上から眺めることができた。実験施設の数から様々な研究が行われていることが一目瞭然である。しかし、こちらは、「TUNL」のビーム端の施設の雰囲気とあまり違いがなく、大変に懐かしい光景であった。
米国留学時代に過ごした「加速器を利用した物理実験」の世界にしばしば郷愁を感じた一日であった。
2009年7月9日木曜日
ノーベル物理学賞授賞記念講演
「ノーベル物理学賞受賞記念 小林誠・益川敏英講演会」
2009年3月11日(水)東京・有楽町にある「朝日ホール」(マリオン11階)にて午後6時~8時半にわたって開催された、朝日新聞社主催の「ノーベル物理学賞受賞記念 小林誠・益川敏英講演会」に出席した。朝日新聞(朝刊)の案内を見て申し込み、見事に当選したからである。幸いにも前から4番目の列の座席に座ることができたので小林誠・益川敏英の両先生をはじめ、各講演者の顔や姿を間近に見ることもできた。この講演会への参加者は、約750名と翌日の朝刊に発表されていた。
講演に先立ち、「高エネルギー加速器研究機構(KEK)」のビデオが上映された。縮小版なので、部分的にカットされていたが、そのカットされた部分も含めてもう一度じっくりと見てみたいと思うような内容であった。
また、今回の講演では、高エネルギー加速器研究機構理事の高崎史彦先生の講演も聴くことができたのは、予想外の喜びであった。今回のノーベル物理学賞は、理論物理学者が受賞したが、多くの人々に実験物理学の重要性を改めて認識してもらいたいものである。
「ノーベル物理学賞受賞記念 小林誠・益川敏英講演会」
東京・有楽町「朝日ホール」
2009年3月11日(水)
(前半)記念講演
1.「6元クォーク模型誕生のころ」
小林誠 高エネルギー加速器研究機構特別栄誉教授
2.「科学とロマン」
益川敏英 京都産業大教授
《休憩》
(後半)
3.「KEK」における小林・益川理論の検証
高崎史彦 高エネルギー加速器研究機構理事
4.パネルディスカッション
「宇宙と人間」
小林誠、益川敏英、高崎史彦、清水義範 小説家、高橋真理子 司会
小林・益川の両氏の講演内容は、いろいろな雑誌や講演で何回も採り上げられているものが中心になっているが、やはりそれぞれに特徴があって何度聴いても面白い。
小林誠先生の講演は、前回聴いているので、重複するかなぁと思っていたが、やはり「小林・益川理論」の概説であった。今回は、小林誠先生のいろいろな人間的な側面をお聴きしたかったので、ちょっと残念である。
益川敏英先生の講演は、ところどころにユーモアを交えて、大変に面白く聴くことができた。講演の表題は、例えば、京都産業大学の雑誌に掲載されているようなものであったが、実際に話された内容は、益川敏英先生のいろいろな人間的な側面と、理論物理学者としての側面とが随所に現われたものであった。また、その内容の一つとして、南部陽一郎先生の研究を尊敬していることが大いに感じられた。「素粒子の世界大会(東京で開催)」の名誉あるSummary Speech(閉会のときの挨拶)で南部陽一郎先生が、「CP対称性の破れ」に関する「小林・益川理論」を述べられたことがかなり印象に残っている様子であった。
以下に、益川敏英先生の講演内容の一部を箇条書きにする:
(1)当時の世界の理論物理学の潮流から見ると、坂田グループ(名古屋大学の素粒子研究室の理論物理)は、「一周遅れの先頭を走っていた」。そして、大学院では、講師が「場の理論」を研究していて、我々にそれを詳細に教えてくれていた。
(2)「CP対称性の破れ」の問題は、研究テーマを捜しているときに、偶然に見つけたもので、最初はあまり興味がなかった。
(3)小林・益川理論を考えていたときの思考プロセス、即ち構築した4つのクォークのモデルでは「CP対称性の破れ」がうまく証明できなかったので、6つのクォークのモデルを考えつくようになった思考プロセスを、一般向けに大雑把に話されたが、もっと具体的な物理的思考プロセスを聴いてみたいと思ったので、ちょっと残念である。4つのクォーク・モデルを構築して「CP対称性の破れ」を証明しようとしたときにかなり計算に苦労したので、6つのクォークのモデルを用いたときには、あまり計算に苦労しなかったと話された。
(4)京都大学時代は、京都大学職員組合の書記長として活躍していたので、早朝に、「理論的な研究」をしてから(注:たぶん、前夜に行っていた「理論的な研究」を続行したと思われる)、日中は、その「仕事」が多く、それが一段落してから、「研究室」に戻って、夜中の1時頃まで、毎日「理論的な研究」を行ってから帰宅したという。
(5)チャレンジしたくなる問題を見つけたときが最も“楽しく”、その問題を解決してしまったときが最も“つまらない”と言われて会場が大いに沸いた。また、一つの問題を解決してしまったら、その問題をよく詳細に論証したり、突き詰めたりするのではなく、また新たな別の問題にチャレンジすることが好きである旨を述べられた。
(6)最先端の研究の一つとして「超対称性理論」に興味を持っている。
(7)有名な理論物理学者W. Pauliの話の後に言われたことであるが、人間は、人間として優れた人格の育むべきであり、他人(の研究)を批難し、かつ自分(の研究)が世界の中心であり、自分以外の人間(の研究)は、存在することに値しないというようなことを公然と言い切るような、傲慢な(研究)者がもっとも嫌いなタイプの人間である。
この講演を聴いた後、「好きなものはとことん好き」、「嫌いなものは絶対に嫌い」であると、ものごとをハッキリ言える、人間味溢れる益川先生に大いなる魅力を感じた。
ちょうど講演当日の朝から通勤電車の中で、難解であると思っていた益川敏英・著の『いま、もう一つの素粒子論入門』(パリティブックス・丸善・1998年)を読んでいるが、これがなかなか面白いと思うようになってきた。
なお、今回の益川敏英先生による講演でも述べられていた「CP対称性の破れ」の研究に関する経緯については、ノーベル財団ウェブサイトの「Nobel Lecture」に詳細に記載されているので参照されたい。大変に興味を覚える研究の経緯である。
2009年3月11日(水)東京・有楽町にある「朝日ホール」(マリオン11階)にて午後6時~8時半にわたって開催された、朝日新聞社主催の「ノーベル物理学賞受賞記念 小林誠・益川敏英講演会」に出席した。朝日新聞(朝刊)の案内を見て申し込み、見事に当選したからである。幸いにも前から4番目の列の座席に座ることができたので小林誠・益川敏英の両先生をはじめ、各講演者の顔や姿を間近に見ることもできた。この講演会への参加者は、約750名と翌日の朝刊に発表されていた。
講演に先立ち、「高エネルギー加速器研究機構(KEK)」のビデオが上映された。縮小版なので、部分的にカットされていたが、そのカットされた部分も含めてもう一度じっくりと見てみたいと思うような内容であった。
また、今回の講演では、高エネルギー加速器研究機構理事の高崎史彦先生の講演も聴くことができたのは、予想外の喜びであった。今回のノーベル物理学賞は、理論物理学者が受賞したが、多くの人々に実験物理学の重要性を改めて認識してもらいたいものである。
「ノーベル物理学賞受賞記念 小林誠・益川敏英講演会」
東京・有楽町「朝日ホール」
2009年3月11日(水)
(前半)記念講演
1.「6元クォーク模型誕生のころ」
小林誠 高エネルギー加速器研究機構特別栄誉教授
2.「科学とロマン」
益川敏英 京都産業大教授
《休憩》
(後半)
3.「KEK」における小林・益川理論の検証
高崎史彦 高エネルギー加速器研究機構理事
4.パネルディスカッション
「宇宙と人間」
小林誠、益川敏英、高崎史彦、清水義範 小説家、高橋真理子 司会
小林・益川の両氏の講演内容は、いろいろな雑誌や講演で何回も採り上げられているものが中心になっているが、やはりそれぞれに特徴があって何度聴いても面白い。
小林誠先生の講演は、前回聴いているので、重複するかなぁと思っていたが、やはり「小林・益川理論」の概説であった。今回は、小林誠先生のいろいろな人間的な側面をお聴きしたかったので、ちょっと残念である。
益川敏英先生の講演は、ところどころにユーモアを交えて、大変に面白く聴くことができた。講演の表題は、例えば、京都産業大学の雑誌に掲載されているようなものであったが、実際に話された内容は、益川敏英先生のいろいろな人間的な側面と、理論物理学者としての側面とが随所に現われたものであった。また、その内容の一つとして、南部陽一郎先生の研究を尊敬していることが大いに感じられた。「素粒子の世界大会(東京で開催)」の名誉あるSummary Speech(閉会のときの挨拶)で南部陽一郎先生が、「CP対称性の破れ」に関する「小林・益川理論」を述べられたことがかなり印象に残っている様子であった。
以下に、益川敏英先生の講演内容の一部を箇条書きにする:
(1)当時の世界の理論物理学の潮流から見ると、坂田グループ(名古屋大学の素粒子研究室の理論物理)は、「一周遅れの先頭を走っていた」。そして、大学院では、講師が「場の理論」を研究していて、我々にそれを詳細に教えてくれていた。
(2)「CP対称性の破れ」の問題は、研究テーマを捜しているときに、偶然に見つけたもので、最初はあまり興味がなかった。
(3)小林・益川理論を考えていたときの思考プロセス、即ち構築した4つのクォークのモデルでは「CP対称性の破れ」がうまく証明できなかったので、6つのクォークのモデルを考えつくようになった思考プロセスを、一般向けに大雑把に話されたが、もっと具体的な物理的思考プロセスを聴いてみたいと思ったので、ちょっと残念である。4つのクォーク・モデルを構築して「CP対称性の破れ」を証明しようとしたときにかなり計算に苦労したので、6つのクォークのモデルを用いたときには、あまり計算に苦労しなかったと話された。
(4)京都大学時代は、京都大学職員組合の書記長として活躍していたので、早朝に、「理論的な研究」をしてから(注:たぶん、前夜に行っていた「理論的な研究」を続行したと思われる)、日中は、その「仕事」が多く、それが一段落してから、「研究室」に戻って、夜中の1時頃まで、毎日「理論的な研究」を行ってから帰宅したという。
(5)チャレンジしたくなる問題を見つけたときが最も“楽しく”、その問題を解決してしまったときが最も“つまらない”と言われて会場が大いに沸いた。また、一つの問題を解決してしまったら、その問題をよく詳細に論証したり、突き詰めたりするのではなく、また新たな別の問題にチャレンジすることが好きである旨を述べられた。
(6)最先端の研究の一つとして「超対称性理論」に興味を持っている。
(7)有名な理論物理学者W. Pauliの話の後に言われたことであるが、人間は、人間として優れた人格の育むべきであり、他人(の研究)を批難し、かつ自分(の研究)が世界の中心であり、自分以外の人間(の研究)は、存在することに値しないというようなことを公然と言い切るような、傲慢な(研究)者がもっとも嫌いなタイプの人間である。
この講演を聴いた後、「好きなものはとことん好き」、「嫌いなものは絶対に嫌い」であると、ものごとをハッキリ言える、人間味溢れる益川先生に大いなる魅力を感じた。
ちょうど講演当日の朝から通勤電車の中で、難解であると思っていた益川敏英・著の『いま、もう一つの素粒子論入門』(パリティブックス・丸善・1998年)を読んでいるが、これがなかなか面白いと思うようになってきた。
なお、今回の益川敏英先生による講演でも述べられていた「CP対称性の破れ」の研究に関する経緯については、ノーベル財団ウェブサイトの「Nobel Lecture」に詳細に記載されているので参照されたい。大変に興味を覚える研究の経緯である。
韓国伝統音楽

私が韓国伝統音楽に本格的に興味を持つ切っ掛けとなったのは、2008年7月3日~12日の間に行われた韓国文化院が開催する韓国伝統音楽講座短期コース(全4回)で、「韓国国立国楽院」で「伽倻琴」(カヤグム)の「副首席奏者」を務める「李侑娜」(リ・ユナ)さんから「伽倻琴」を習ったことにある。
2009年6月19日(金)に新宿・四谷に移転した「韓国文化院」で「韓国文化院開院30周年・新庁舎移転記念公演」を観てきた。
公演は、「サムルノリ」を演奏するグループ四物広大(サムルグァンデ)による力強い熱気溢れる「キルノリ」という曲の演奏から始まった。その演奏は、力強さだけでなくそのハーモニーもまた素晴らしいものであった。私が興味を覚えている「チャング」をあのように演奏することもできるのかと驚かされた。
「サムルノリ」は「四物の遊び」という意味で、地方ごとに異なる農楽の中でも必ず用いられる4つの楽器(ケンガリ、チン、チャング、プク)で演奏する。チン(鉦)は風を、プク(太鼓)は雲を、チャング(鼓の一種)は雨を、ケンガリ(小さい鉦)は雷を表現し、また、金属製の楽器は天を表し、木と皮の楽器は地を表すと言われており、4つの楽器が奏でる楽曲は、天地・宇宙を表現するものであるという。
続いて、独舞「僧舞」(スンム)が趙恩夏(チョ・ウンハ)さんによって舞われた。この「僧舞」は、韓国の多くの舞の中でも特に見たかった舞であった。漸く念願が叶った。それも生演奏をバックに「僧舞」を視ることができた。趙恩夏さんの舞は、全体的に素晴らしかったが、その中でも太鼓を演奏しながらの舞いが特に印象的で、なかなか見ごたえがあった。
「祝唱」が韓国の伝統音楽「パンソリ」の大家といわれる安淑善(アン・スックソン)さんの独唱と、韓国国立唱劇団の張宗民(チャン・ジョンミン)さんのチャングの演奏で行われた。「パンソリ」は、語りに近い形態で行われ、私の「ハングル」の知識がないために、どのような内容であるのかを理解することができなかったのが残念である。
韓国ドラマ「英雄時代」で「パンソリ」の名手として「ソソン」(キム・ジス)が登場していたことを思い出す。
「夕刻から夜明けが訪れるまで」という「ヘグム」独奏の楽曲がピアノの伴奏(テープ)で「李恩京」(イ・ウンギョ)さんによって演奏された。美しいメロディーがヘグムのモダンな演奏によって奏でられた。
「25弦伽倻琴」と「テグム」のための「メナリ」という楽曲は、金美卿(キム・ミギョン)さんによる「25弦伽倻琴」の演奏、張侊洙(チャン・グァンス)さんの「大琴」(テグム)、そして成知恩(ソン・ジウン)さんの「杖鼓」(チャンゴ)による素晴らしい演奏が行われた。
数々の演目の中でも特に注目したのは、韓国古楽器である「伽倻琴」の第一人者として知られ、また現代的な楽曲を自ら作曲して「伽倻琴」を演奏することでも知られている国立国楽管弦楽団の芸術監督で、梨花女子大学の名誉教授である「黄秉冀」(ファン・ビョンギ)さんによる演奏である。今迄聴いた伝統的な「伽倻琴」の演奏とは異なり、モダニズムが随所に表されている独特の演奏で「沈香舞」を聴かせてくれたことだ。非常に素晴らしい演奏で多くの聴衆が魅了された。朴天志(パク・チョンジ)さんの「杖鼓」の伴奏も見事であった。
そして、韓国国立国楽管弦楽団による演奏で、「伽倻琴」等の韓国国楽の楽器が見事にハーモニーを奏でる素晴らしい演奏であった。
2009年6月19日(金)に新宿・四谷に移転した「韓国文化院」で「韓国文化院開院30周年・新庁舎移転記念公演」を観てきた。
公演は、「サムルノリ」を演奏するグループ四物広大(サムルグァンデ)による力強い熱気溢れる「キルノリ」という曲の演奏から始まった。その演奏は、力強さだけでなくそのハーモニーもまた素晴らしいものであった。私が興味を覚えている「チャング」をあのように演奏することもできるのかと驚かされた。
「サムルノリ」は「四物の遊び」という意味で、地方ごとに異なる農楽の中でも必ず用いられる4つの楽器(ケンガリ、チン、チャング、プク)で演奏する。チン(鉦)は風を、プク(太鼓)は雲を、チャング(鼓の一種)は雨を、ケンガリ(小さい鉦)は雷を表現し、また、金属製の楽器は天を表し、木と皮の楽器は地を表すと言われており、4つの楽器が奏でる楽曲は、天地・宇宙を表現するものであるという。
続いて、独舞「僧舞」(スンム)が趙恩夏(チョ・ウンハ)さんによって舞われた。この「僧舞」は、韓国の多くの舞の中でも特に見たかった舞であった。漸く念願が叶った。それも生演奏をバックに「僧舞」を視ることができた。趙恩夏さんの舞は、全体的に素晴らしかったが、その中でも太鼓を演奏しながらの舞いが特に印象的で、なかなか見ごたえがあった。
「祝唱」が韓国の伝統音楽「パンソリ」の大家といわれる安淑善(アン・スックソン)さんの独唱と、韓国国立唱劇団の張宗民(チャン・ジョンミン)さんのチャングの演奏で行われた。「パンソリ」は、語りに近い形態で行われ、私の「ハングル」の知識がないために、どのような内容であるのかを理解することができなかったのが残念である。
韓国ドラマ「英雄時代」で「パンソリ」の名手として「ソソン」(キム・ジス)が登場していたことを思い出す。
「夕刻から夜明けが訪れるまで」という「ヘグム」独奏の楽曲がピアノの伴奏(テープ)で「李恩京」(イ・ウンギョ)さんによって演奏された。美しいメロディーがヘグムのモダンな演奏によって奏でられた。
「25弦伽倻琴」と「テグム」のための「メナリ」という楽曲は、金美卿(キム・ミギョン)さんによる「25弦伽倻琴」の演奏、張侊洙(チャン・グァンス)さんの「大琴」(テグム)、そして成知恩(ソン・ジウン)さんの「杖鼓」(チャンゴ)による素晴らしい演奏が行われた。
数々の演目の中でも特に注目したのは、韓国古楽器である「伽倻琴」の第一人者として知られ、また現代的な楽曲を自ら作曲して「伽倻琴」を演奏することでも知られている国立国楽管弦楽団の芸術監督で、梨花女子大学の名誉教授である「黄秉冀」(ファン・ビョンギ)さんによる演奏である。今迄聴いた伝統的な「伽倻琴」の演奏とは異なり、モダニズムが随所に表されている独特の演奏で「沈香舞」を聴かせてくれたことだ。非常に素晴らしい演奏で多くの聴衆が魅了された。朴天志(パク・チョンジ)さんの「杖鼓」の伴奏も見事であった。
そして、韓国国立国楽管弦楽団による演奏で、「伽倻琴」等の韓国国楽の楽器が見事にハーモニーを奏でる素晴らしい演奏であった。
2009年7月8日水曜日
弘明寺観音

坂東札所第十四番「瑞応山弘明寺」(高野山真言宗)
「弘明寺」は、散歩の途中にいつも御参りしている御寺さんであるが、2009年7月5日(日)に御本尊の「十一面観音菩薩像」(元:国宝、現:重要文化財)を初めて直接拝んできた。
御本尊の「十一面観音菩薩像」は、昭和三十三年に完成した防災安置堂に納められていて、堂内の入口で拝観料を払うと、御堂の内々陣に入って直接拝むことができる。
御本尊の「十一面観音菩薩像」は、僧「行基」が一刀三礼のうちに刻み奉った「鉈彫り」の観音さまと伝えられているが、実際には、その彫刻の形式から、「平安末期の作」と言われている。また、近年の調査で、御本尊の「十一面観音菩薩像」は、像高一八〇センチ、関東地方特産のカタ木の「ハルニレ」の木を彫った一木造りであることが判明した。
「鉈彫り」は、十世紀から十一世紀にかけて関東地方に多く見られる仏像彫刻の一形式であるが、御本尊の「十一面観音菩薩像」は、顔から足の先まで、丸ノミでシマ目のノミの跡をはっきり表わしたもので、「鉈彫り」の仏像の中でも最も優れたものとして知られている。
近くで御本尊の「十一面観音菩薩像」を拝むと、御優しい御顔をされている。何度か見ていると、微笑んでおられるように見えるときがある。
いつも御堂には御参りするが、時々は、御堂の内々陣に入ってこの御本尊の「十一面観音菩薩像」を直接拝みたいと思っている。いつも身近におわす素晴らしい観音さまである。
「弘明寺」は、散歩の途中にいつも御参りしている御寺さんであるが、2009年7月5日(日)に御本尊の「十一面観音菩薩像」(元:国宝、現:重要文化財)を初めて直接拝んできた。
御本尊の「十一面観音菩薩像」は、昭和三十三年に完成した防災安置堂に納められていて、堂内の入口で拝観料を払うと、御堂の内々陣に入って直接拝むことができる。
御本尊の「十一面観音菩薩像」は、僧「行基」が一刀三礼のうちに刻み奉った「鉈彫り」の観音さまと伝えられているが、実際には、その彫刻の形式から、「平安末期の作」と言われている。また、近年の調査で、御本尊の「十一面観音菩薩像」は、像高一八〇センチ、関東地方特産のカタ木の「ハルニレ」の木を彫った一木造りであることが判明した。
「鉈彫り」は、十世紀から十一世紀にかけて関東地方に多く見られる仏像彫刻の一形式であるが、御本尊の「十一面観音菩薩像」は、顔から足の先まで、丸ノミでシマ目のノミの跡をはっきり表わしたもので、「鉈彫り」の仏像の中でも最も優れたものとして知られている。
近くで御本尊の「十一面観音菩薩像」を拝むと、御優しい御顔をされている。何度か見ていると、微笑んでおられるように見えるときがある。
いつも御堂には御参りするが、時々は、御堂の内々陣に入ってこの御本尊の「十一面観音菩薩像」を直接拝みたいと思っている。いつも身近におわす素晴らしい観音さまである。
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